死ぬことが怖いというのは本当か? 〜死の国への旅立ちを超越せよ〜

 

ぼくたちは死んだらどうなるのだろう。

死ぬことが怖いというのは本当か? 〜死の国への旅立ちを超越せよ〜

・ぼくたちは誰もが「死」を恐れている
・世界中にあふれる死生観の数々
・すべての死生観は人々の空想
・「死」を目の前にしてうろたえる人々
・ぼくの初めての一人旅はポルトガルの思い出
・ぼくたちは傷つかないために生まれてきたわけじゃない
・安らかに「死の国」へと旅立ちなさい

・ぼくたちは誰もが「死」を恐れている

ぼくたちは誰もが死ぬのが怖い。それは死というものの性質がどのようなものか全くわからないからに他ならない。死んだらどうなるのか誰か教えてくれたならば、別に死を怖いとは思わないのではないだろうか。

けれど死んだらどうなるのかを教えてくれる人はこの世にない。誰も死んでからどうなったかの確かな記憶を持っている人がいないからだ。どうなるかわからないことがあまりにおそろしすぎて、古来より人々は様々な空想や妄想を続けてきた。

 

 

・世界中にあふれる死生観の数々

チベット仏教の世界で言われているように、命は何度でも生まれ変わりまたこの世に戻ってくるという「輪廻転生」の考え方がある。しかしこれは死んでも生まれ変われるのだからあぁよかった安心だということではなく、人生というものは苦しみそのものなのだから生まれ変わらないように修行すること、すなわち「解脱」こそが仏教の最終目的である。

日本でも人が死んだら「四十九日」という法事を行うが、これは死んだ人が49日目に生まれ変わるので死んだ人がよりよい来世を生きられますようにとお祈りする行事である。このような文化が根付いていることからも、日本でも「輪廻転生」の死生観とは無縁であることは決してないだろう。

しかしこのような生まれ変わりの儀式をするにもかかわらず、日本人の典型的な死生観は輪廻転生ではないとぼくは感じる。日本人は人が死んだら、川を渡ってあの世へ行き、あの世では先に死んだ家族などの大切な人々が待ってくれており、彼らと一緒にあの世でいつまでも幸せに暮らせると信じている人が多いのではないだろうか。

そして死んだ人は輪廻転生のように生まれ変わって知らない場所へ行ってしまうというのではなく、いつまでも霊として自分のそばにいて見守ってくれている、残された家族に悪いことが起こらないように守護してくれるという感覚が強いように感じる。

またキリスト教の世界では生まれ変わるわけではなく、死んだ後もこの世で待っていれば、はるか遠い未来に神様が迎えに来てくれて天国へ行けるので、土葬という形で埋葬し神様を待ち続けるのだという。

 

・すべての死生観は人々の空想

しかし輪廻転生しようが、川を渡って極楽へ行こうが、神様が迎えに来てくれて天国へ行こうが、それはみんな証拠のない空想や妄想である。けれどそれは仕方のないことであり、死はぼくたちのすべてに訪れる重要な問題なのに、にも関わらずぼくたちは誰一人として死んだ後どうなるのかを知らないし誰も教えてさえくれないのだ。この世では賢いと賞賛され偉そうに生きている学者や僧侶や王様でさえ、愚かしいことに誰一人死について確かに知らないのだ。

誰もが「死」という国へ旅立つ定めなのに、誰も「死」について教えてくれないのだとしたら、ぼくたちは「死」について不確かな空想や妄想を重ねる他なない。ぼくたちが必ず訪れることになっている「死」という国について考えないことは、すなわち自分という生命と向き合わないことを意味する。そんな生ぬるい生き方がゆるされるはずがない。ぼくたちはわからないからこそ永遠に問い続け、問い続けるからこそ人間なのだ。

 

・「死」を目の前にしてうろたえる人々

死についてあまりに心配になりオロオロとうろたえる人がいる。特に平均寿命を鑑みればもうすぐお迎えがくると思われる老人たちは、死んだらどうなるのか、「死の国」がどのような場所かわからずに狼狽し、逃げ惑う。けれどどんなに逃げようとも「死」は必ずや彼らを追い詰め、とらえて連れ去っていく。

うろたえているのは自分が必ず訪れると知っているにもかかわらず「死の国」について若い頃から真剣に考え、向き合うことをしてこなかった人々ばかりだ。彼らは「死の国」への旅立ちの準備をしてこないままに年老いた。

 

・ぼくの初めての一人旅はポルトガルの思い出

うろたえる彼らの姿を見ていると、なんだかふと過去の自分の姿に似ていると感じられた。「死の国」へと旅立たなければならないのに「死の国」がどのような場所かわからないあまりに、恐怖におそれおののいている日々。それはぼくが初めて異国に一人旅をしようと決意していた日々だった。

ぼくは大学4年生の頃に異国に一人旅をしようと決意した。理由は特になく「この人生では異国を一人旅しなければならない」と、自らの内に潜む旅の炎にけしかけられていたからだ。臆病な性格のぼくがなぜそんなに大胆に異国へと旅立とうとしているのか、自分でも自分自身がよくわからなかった。

旅人の炎

ぼくが人生で初めての一人旅に選んだ国は、南欧のポルトガルだった。ちょうどその頃見た「コクリコ坂から」という映画に感動し、また主題歌の手嶌葵の「さよならの夏」の中に”風見の鳥”という歌詞が入っていたのでポルトガルに決めた。もはや野生的な直感だ。

初めてポルトガルという異国へ一人で旅立つと決めて、飛行機のチケットを買ってから出発するまで、常に不安な気持ちが心の中を占めていたことが思い出される。もしも財布を盗まれたらどうしようとか、間違った電車に乗って知らない町へ行ってしまったらどうしようとか、病気になったらどうしようとか、起きる可能性のあるありとあらゆる最悪の状況を想定しては、一人で怯えていた。行ったことのないポルトガルがどのような国かも全くわからなかったし、どんな人々が住んでいるのか、どんな言語が話されているのか、治安はどうなのかなど見当もつかなかったことが、ぼくの不安を助長させた。

知らないからこそ不安であり、わからないからこそ恐怖に支配された。しかしだから言って旅立つことを中止するという選択肢はなかった。いつだって中止することはできたのにそのような気は全く起こらなかった。「旅立つ」というのはぼくの内なる旅の炎が定めた決定事項であり、ぼくという人間がどんなに不安に駆られていようが恐怖に支配されていようが、炎は旅立ちをぼくに決定的に運命づけていた。

 

 

・ぼくたちは傷つかないために生まれてきたわけじゃない

こんなに旅立ち前は恐怖に支配されていた人生で初めての一人旅だったが、いざ旅立ってしまうとひとかけらの恐ろしさもなく、素晴らしい思い出だけがぼくの胸の中に残る忘れがたいポルトガルの旅となった。一人旅のはずだったのに、飛行機の中でぼくと同じ医学生の女の子と出会い旅の半分は彼女と過ごした。ポルトガルの街並みはどこもうっとりするほどに美しく、観光地っぽくない素朴でのどかな美しさがぼくの感性によく合っていた。首都のリスボンや麗しいポルト、アンダルシアのような白くて可愛い村のオビドス、骨の協会のあるエボラ、イスラム国家の城壁が残るシントラとユーラシア大陸最西端のロカ岬など、どれも筆舌に尽くしがたい尊い思い出だ。

この素晴らしい一人旅の経験は、すべてぼくが旅立つ前の恐怖を乗り越えたからこそ享受できた旅情だった。もしも旅立つ前に異国を一人旅するという恐怖に負けてしまいポルトガル行きのフライトをキャンセルしてしまっては、このような尊い宝物のような旅の記憶を決して手に入れることができなかっただろう。

人は何をするにおいても、新しいことや経験したことのない物事に挑戦する時には恐怖に押しつぶされそうになるものだ。しかしそれを乗り越えた先にある景色こそ、ぼくたちが人生において最も獲得していくべき財産ではないだろうか。どうなるかわかりきった日々の先にある景色や、もう何度もやってきた繰り返しの日常の先で得られる安心感を享受するために、ぼくたちは生まれてきたわけじゃない。わかりきった日々だけをただなんとなく生きながら自らの生命を消耗するだけであれば、生ぬるい安全の中で傷つかずに生きることができるだろう。痛むことも恐れに押しつぶされることもなく、平和だと笑いながら呑気に歩いていけるだろう。

けれどぼくたちは、傷つかないために生まれてきたわけじゃない。安全な箱の中で自分の肌を守り続けることをひたすらに目的としながら、博物館のガラスの中の埃をかぶった化石のように、死んだ顔をして生きるためにここにいるわけじゃない。ぼくたちは自らの根源がぼくたちに投げかけ続ける炎の熱をふさわしく受け取りその炎が指し示す方角を目指して、どんなに傷つきながらでも、どんなにくじけながらでも、最後には自らの炎に神聖に美しく焼き尽くされながら死んでいくために、この世に生を受けたのではないだろうか。

 

 

・安らかに「死の国」へと旅立ちなさい

人間の「死の国」への旅立ちは、ぼくのポルトガルへの旅立ちと似ているのかもしれない。「死の国」について、何も知らない、何もわからない、だから死ぬのは怖い、自分がどうなるのか恐ろしくてたまらない。しかし自分の運命が指し示す通りに、恐れを乗り越えて思い切って潔く「死の国」へと飛び込めば、案外ポルトガルのように美しい風景が広がっているのかもしれない。

「死の国」について何もわからないとはいえども、人間は誰もが「死の国」へと旅立つのだ。ぼくたちのおばあちゃんもおじいちゃんも、そのまたおばあちゃんもおじいちゃんも、誰もがその国へと旅立ち、そしてその国へと旅立たない者はなかった。本能に植え付けられた「死の国」への恐れは消えないまでも、みんなが訪れていくその国が、どうして恐ろしいはずがあるだろうか。誰もが安らかに旅立てたその国へ、どうしてあなただけが安らかに旅立てないことがあるだろうか。

おそれることはない、嘆くことはない。やがてその時が訪れるまで、今生において、倦むことなく修行を完成させなさい。

 

 

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