「ユニコ魔法の島へ」のあらすじと考察!慈しみ深き者が暴力の得意な者よりも強いというのは本当か?

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強そうに見えるものが強いだなんて、ひどくつまらないことだと思いませんか。

「ユニコ魔法の島へ」のあらすじと考察!慈しみ深き者が暴力の得意な者よりも強いというのは本当か?

・見た目強き者は恐ろしき者
・弱き者が強き者へ 〜翻りの情緒〜
・手塚治虫「ユニコ 魔法の島へ」のあらすじと考察
・暴力や人殺しではない慈悲の心だけが、本当に人の心を感動させる

・見た目強き者は恐ろしき者

ぼくは子供の頃、周りの男の子が見ているテレビをあまり見ていなかった。ドラゴンボールやスラムダンクやウルトラマンなどに全然魅力を感じなかった。なんだか主人公の顔が、小さなぼくにとってはとても怖かったのだ。それよりもドラえもんとかクレヨンしんちゃんとか可愛らしくて見た目が怖くないものを好んで見ていた。

ドラゴンボールとかスラムダンクとかがどうして他の子供たちにとってそんなに魅力的に映るのか、ぼくには全くもって分からなかった。強そうで怖そうな顔が主人公のアニメなんて、どう考えても見たくなかった。怖い顔が嫌で集中して見ていられないからだ。みんなあの顔や主人公たちの行動を「かっこいい」と思っているらしかったが、ぼくにはその感性が全く理解できなかった。なんであれがかっこいいのだろうか。自分の感性と世間の感性との大いなる隔たりをひしひしと感じた。よく考えていただきたい。深夜の道をひとりで歩いていて、急に暗闇の中にウルトラマンが現れたらかなり恐怖ではないだろうか!どうしてあの奇妙な風貌のウルトラマンがかっこいいと思えるのだろう!

それに幼いぼくはあまり戦いというものにも興味がなかった。戦いを見ることは確かにワクワクもするし興奮もするだろうが、それを進んで見たいとは決して思わなかったのだ。それよりもドラえもんやクレヨンしんちゃんのような日常性あふれる、けれどたまに為になるようなアニメだけを好んで見る傾向があった。

 

 

・弱き者が強き者へ 〜翻りの情緒〜

しかしぼくがそれらのアニメを見なかった最大の理由は、「強そうな主人公が強い」というその展開に魅力を感じなかったからだ。強そうで怖そうな顔をした主人公たちが、実際に最も強くて活躍しましたという物語なんて、予想通りで当たり前すぎて全く魅力を感じないのだ。そんな話の展開に、一体どんな感動的な驚きと情緒があるというのだろうか。世間で強そうに見なされていた人が実際にも強かっただなんて、そんなことはつまらないことだと思っていたし、ぼくはその逆が起こってほしいと強く望んでいたのだ。

この世で最もか弱く、最も優しく見えるものこそが、実はこの世で最も“強い”存在だったのだという物語に憧れていた。しかもこの場合の強いというのは筋肉があるとか運動能力が高いとか暴力的だとか、そのような安直で肉体的な強さではなく、真に慈悲の心から来る“力強さ”のようなものを意味している。そのようなまったく予想外の、世の中すべての人間の“常識”を覆して人々の目をハッと覚まさせてしまいような、翻りの展開を心から望む傾向にあった。

しかしこの世にアニメ作品は数多くあれど、実際にそのような慈悲深く尊い作品に巡り会えることは人生で稀だった。思い返してみると「天空の城ラピュタ」におけるシータはその一例かもしれない。いつも「パズー!」と頼りなさげで弱々しそうに男を呼んでいただけのシータが、最後の場面では王としての貫禄を突如取り戻し、高潔な論でムスカを諭していく。

「国が滅びたのに、王だけ生きているなんて滑稽だわ。あなたに石は渡さない!あなたはここから出ることもできずに、私と死ぬの。今はなぜラピュタが滅びたのか私よくわかる。ゴンドアの谷の歌にあるもの。”土に根をおろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春を歌おう”。どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想なロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ!」と。

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そしてぼくがこの人生で昔から見ている作品の中で、最も弱そうに見えるものが実は最も慈悲深く最も力強い存在だったという真実の情緒を指し示す、最古にして最高傑作だと思ってやまないのは手塚治虫の「ユニコ 魔法の島へ」というアニメ映画作品である。

 

 

・手塚治虫「ユニコ 魔法の島へ」のあらすじと考察

ユニコというのはユニコーンの子供だ。親のユニコーンからはたくさんの子供が生まれたがその中でもユニコだけは特別に白い立派な角を兼ね備え、他の子供とは違う、人を幸福にできるような不思議な力を持っていた。しかし、自然とまわりの人々を幸せにしてしまうユニコを天空から見ていた神様は、あまりに人々を幸せにしてしまって自分たちの出番がなくなるからと(なんという身勝手な理由!)嫉妬し、ユニコを楽園から追放してしまう。ユニコはそこから長く終わりのないさすらいの旅に出る宿命を背負ってゆく。

ユニコは見た目的にも声もとても可愛らしいユニコーンの子供で、よく泣いたり甘えたり、まったく強そうには見えない主人公だ。可愛い動物だから子供たちに人気が出るような感じのキャラクターと言えよう。

そんなユニコがこの映画「ユニコ 魔法の島へ」の中では、人間を魔法で「生き人形」にし、それをパーツにして巨大なお城を築き上げているという極悪非道の魔法使いククルックと対決することになる。ククルックはもともとはサーカスの操り人形で、魔法使いのおばあさんなどの悪い役ばかりをやらされていた。そして散々悪い役として人間にこき使われて、いざ操るための糸が絡まってしまうと、すぐに海に投げ捨てられてしまったという悲しい過去を背負っている。ククルックはその後”地の果て”へと流れ着き、そこで自ら能動的に動く能力を手に入れた彼女は、人間に復讐することを誓った。その憎悪の感情が「人間を生き人形にしてお城を作る」という狂気の行動へと繋がっているのだ!

ククルックは風貌も声も動きも狂気に満ちていてひどく恐ろしい。いや、「おぞましい」と表現するのが適切かもしれない。しかしそんな狂気の行動を見せているククルックも誰にも見えないところでは、内緒でおもちゃ人形たちに心を慰められていたりと、どうしようもない精神的な欠乏と空白を埋めることができずにいる可哀想な様子も映し出されている。外から見ると一見怖くて狂気に満ちていておぞましく見えるような人物でも、実際はさみしい心を持ったどうしようもなく哀れな人なのかもしれないと、子供たちはこのアニメを見て気づくことだろう。さみしくてさみしくてどうしようもない心が、彼女に狂気の行動を取らせていたのだ。

ユニコは魔法で人間を生き人形にしている悪い魔法使いククルックを何度も説得し、やめるように促すがククルックは聞く耳を持たない。それどころか積極的にユニコを攻撃して来るので、ユニコは最初逃げ回ってばかりいる。この逃げ回る様子からは、ユニコは可愛らしい見た目通りの弱そうなキャラクターにしか見えない。しかし“本気で戦わなければ敵わない”と察したユニコはちょっと本気を出しただけで、簡単に角でククルックを突き刺し一撃でやっつけてしまう!

このギャップが非常に面白い!本当に、真に強い者は、普段から強そうな様子を微塵も見せず、むしろ隠しながらそれを内側に高貴さを蓄えているのだ!そして本当に必要な時にだけ、その真実の力をあからさまに発揮する!まるでいつもは頭の悪そに見える人物が、いざというときに実はものすごく聡明だったことが判明した時の、神秘的な雰囲気に似たものがある。このユニコのギャップは非常に粋で、子供ながらに目を見張るものがあった!

実は強かったユニコに、一瞬で体を突き破られたククルック!しかしそれでもなおユニコは「あんたとは本気で戦えない」と言い放ち、ククルックは衝撃を受ける!自分を角で一突きし瀕死の傷を負わせているのに、これでもユニコはまったく本気ではないというのだ!

「なぜ本気で戦えないのさ?!?!なぜ?!?!」と絶叫するようにククルックはユニコに詰問する。するとユニコは「あんたがかわいそうだもの」と答える。今までにそんなことを言われたこともなかったククルックは衝撃を受け驚愕する。「いいことをしたことがないなんて、かわいそうだよそんなの」とユニコは続ける。大きな哀れみの情をククルックにかけているのだ。「そんなことじゃお友達はできないよ!ククルックさんは悪いことばかりしているんだもの」とユニコはさらに続ける。

「やめておくれ…わたしにお友達なんてとんでもないことだ…そんなこと言わないでおくれ」と苦しそうに、泣きそうになりながらうなだれるククルックに対して、ユニコはさらに優しい慈悲の言葉を投げかけていく。「ぼくわかるよ!ククルックさんはさみしいんだよ!あんまりさみしいと、悪いことしたくなる!そういうときあるもの」

「さみしい?!このわたしがさみしいだって?!?!?」と自分の隠していた心の中を見破られたことでさらに苦しみ、体が縮小してしまうククルック。「わたしの魔法は恨みの塊なんだよ!!人間を憎むからこそわたしは強いんだ…!!ああそれなのに…」「人を恨むのがわたしの生きがいなのに…それなのに…氷のように冷たく張り詰めた恨みの心が…憎しみの思いが…優しい言葉でとけてしまう…あぁ…」ユニコの優しい慈悲の心と言葉によって、ついにククルックは呪いと恨みに満ちた魔法使いの姿から、元の操り人形の姿へと戻ってしまった。

ここで面白いのはククルックという最強の悪者を倒したのが、強い武器でもなければ強い肉体でも、強い兵器でもなく、慈悲深い者の慈悲深い心であるという点だ。強そうな者たちが、強力な肉体や物質や道具を使い、悪者をやっつけるなんて、なんて野蛮で野暮でありふれた物語だろうか!そうではなくて、ともすればこの世で最も弱そうに見えてしまう者が、実はこの世で最も強力で深い慈悲の心を持ち合わせることによって、強力な敵を“やっつけて殺す”わけではなく、その悪者にかけられた呪いを解いて“浄化する”ことにより勝利を勝ち取るという物語は、なんとも情緒深く清らかな心に響き渡るものがある。これこそが「本当の勝利」といえるのではないだろうか。そしてこの世では慈悲深いものこそが、実は最も強いと言えるのではないだろうか。

 

 

・暴力や人殺しではない慈悲の心だけが、本当に人の心を感動させる

人間の世界では、常に戦争が巻き起こっている。暴力の得意な者や、人殺しの得意な国が常に勝者となり、暴力の不得意な者、人殺しを厭う国を敗者として裁き、制裁は加えられる。暴力が得意で、人殺しを何とも思わない傾向にある国や民族たちが勝利者となり、この世界の中で「正義」として君臨し、自分の思い通りの秩序を作り出し、力の弱き者たちをねじ伏せることに成功している。しかしこんな世界がおかしいことは、ちょっと考えれば子供だって気づくはずだ。どうして暴力の得意な者が「正義」なのだろう、どうして人殺しの得意な国が「正しい」のだろう。彼らは逆に、極悪非道の悪魔ではないだろうか。

力が強いのならば、弱い者に慈悲の心をかけ、助けてやればいいのだ。作戦を練るのが得意なら、愚かな民衆たちを指導し、国を豊かでよい方向へ導けばいいのだ。それが本当の正義を持った力持ちや聡明な人々の果たすべき行いではないだろか。しかし人間の世界では、力が強ければ暴力と人殺しにその能力を最大限に費やし、勝利することで偽りに満ちた「正義」を名乗りながら弱き者たちを支配し、自らの利益を貪ることばかりを考えている。

そんなまやかしとごまかしに満たされた間違った「正義」なんかに支配されるために、ぼくたちはこの世界に生まれてきたのだろか。ぼくたちは暴力や人殺しが得意な者たちに従うためにこの世に生まれてきたわけじゃない。ぼくたちが本当にこの人生を通して触れるべきものは、偽りのない本当の強さに秘められた慈悲の心ではないだろか。見返りを求めずに与える心、返されなくてもただ愛する気持ち、敵でも味方でも関係なく相手を思いやる慈悲の思い、そんなものたちに触れたときにだけ、ぼくたち人間は本当に心揺さぶられ感動するのではないだろうか。

ぼくは物心ついたときからこの「ユニコ 魔法の島へ」を何回も見ては、自分はユニコになりたいと憧れていた。幼い子供ながらに直感的に心からそう願ってしまったのだ。おそらく最初に見たのは4〜5歳くらいだった。そして今でもAmazonでDVDを買っては時々見ているという有様である。この作品はぼくの中でも幼い頃から親しみ抜いた”人生の聖書”のような存在となるのかもしれない。そしてこの映画こそが、ぼくの人生の映画と言えるだろう。この作品の教えてくれることは、本当に数限りない。

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