間違いさがしは、なぜ間違いさがしと言うのか?????

「間違い探し」からわかる日本人の本性!みんなと同じでないことは間違いであるというのは本当か?
・間違いさがしという遊びの仕組み
・間違いさがしはなぜ間違いさがしと言うのか?
・米津玄師「まちがいさがし」
・人と違うということは、間違っているということ
・ぼくのみんなと同じではない人生
・人間が真剣に生き抜いたならみんなと同じであることなんてできない
・創造的に生きる炎は永遠に消えることのない灯火
目次
・間違いさがしという遊びの仕組み
間違いさがしという遊びがある。2つの絵が同時に並べられていてどこが違うのかを言い当てる、誰もが知っているあの遊びである。これが意外と難しく、例えば5つの間違いをさがせと出題されたとしても4つくらいなら簡単に見つけ出せるが、最後の1つがどうしてもわからなくて苦悩したりする。単なる遊びなのに苦労してやっとの思いで最後の間違いを見付けた後には、発見した喜びとどうしてこれが分からなかったのだろうと虚しい気持ちが心の中でごちゃ混ぜになったりする。日本の子供たちやサイゼリアによく行く大人たちにとっても、間違いさがしはよく慣れ親しんだ馴染み深い国民的遊びとなっている。
・間違いさがしはなぜ間違いさがしと言うのか?
しかしよく考えてみれば、なぜ間違いさがしのことを「間違いさがし」と言うのだろうか。ぼくたちは並べられた2枚の絵から「違う箇所」「異なる箇所」を探そうとはしているけれども、決して”間違い”を探そうとはしていない。だいたい間違いというものはまずは正解というものがあって、その裏側で影のように出現する性質のものであるのに、そもそもの正解というものが間違いさがしの中には存在しないから、そこに間違いも立ち現れるはずがない。
並べられた2枚の絵のうち、片方の絵が正解だと設定されているならば、もう片方の絵の間違いを探そうとする理屈は通るが、2枚の絵のうちどちらが正解でどちらが間違いであると主張している間違いさがしをぼくは見たことがない。そもそも2枚の絵のどちらが正解いでどちらが間違いであるという区別などなく、ただ単に2枚の絵の違いを発見してくださいという間違いさがしが非常に一般的だろう。
とすれば間違いさがしというものは、本来ならば”違いさがし”と名付けられるべきだろう。それが何かの手違いで間違いさがしという名称にされてしまい、日本で根付いてしまったということなのだろうか。それとも”違いさがし”という名前だと何となくインパクトに欠けて流行しないと見なされたことから、遊びの主旨とは異なるが方便で間違いさがしという名称が採用されたのだろうか。
・米津玄師「まちがいさがし」
まちがいさがしの間違いの方に
生まれてきたような気でいたけど
まちがいさがしの正解の方じゃ
きっと出会えなかったと思う
・人と違うということは、間違っているということ
こんなことを深く考えても意味がないと思われてしまうが、とにかく「間違いさがし」という遊びは本来ならば「違いさがし」であることは理解できる。つまりは日本語を操る日本人の中で、間違い=違いだったのではないかと直感した時、ぼくの魂は怒りに燃え始めた。日本人の人々の心の中では違うということ、異なるということは、間違いだと名付けるべきだと見なされているということが、「間違いさがし」の名称から浮き彫りになったからだ。
これは日本人として日本という国に生きていると、ものすごく思い当たる現象だ。ほとんど単一民族国家と見なされている日本ではみんなが同じように足並み揃えて生きるべきだという同調圧力が強く、その空気を読みながら育ってきた日本人は余程の信念がない限り、みんなと同じように生きていれば安心なのだと”普通の”人生を選択していく。逆に他の人と違ってはいけない、異なってはならない、珍しい存在になったり目立ったりレールから外れたらもはや生きていけないという臆病な強迫観念が非常に強く、さらには自分は”普通の”集団に所属しながらも”普通ではない”人々を蔑んだり、排除したり、攻撃しようと躍起になる傾向がある。
何もこれは日本人に限ったことではなく、人間というものがそのような性質を持っているという話なのかもしれない。しかし世界の事情は明確には分からないので日本人として生まれ育ってきたぼくが日本という国の空気感を伝えると、まさに人と違うということ、普通とは異なるということは、日本の中ではまさに間違いであり、過激に言えば人々の心の奥底で罪悪とすら判断されているのではないだろうか。
・ぼくのみんなと同じではない人生
ぼくも医師という職業を中断して世界一周の旅に出たりして、明らかに普通ではない種類の人間だ。さらにはコロナ禍ではフリーランスの医師として復活し、日本中を旅するように労働する見たこともないような新しいスタイルの医師兼旅人となり、若い時代にコロナワクチンバイトだけで3年間稼ぎまくってFireし、その後は世界一周の旅を再開したりしてもはや普通ではないという次元を超えて滅茶苦茶だ。それもこれもぼくが「旅に出たい」という自らの内なる情熱に従って純粋に燃え盛るように生き抜いたことがきっかけであり、世の中や他人のことなどふり向きもせずに、過去を省みることも未来を思い煩うこともなくただ今だけに集中して、必死で夢中になって真剣に自らの直感を信仰した結果だ。
ぼくの生き様を見て若い人々は理解をしてしてくれ、興味を持ったり真似をしたり尊重してくれる人も多いが、親などの老いた世代となるとあまり理解できないらしく、人と違う生き方をすることを罪悪だと見なしているようでもあり、まさに日本人の心の中の「人と異なること=間違い」という方程式を反映していると言えるだろう。また若い人々だって表面上は面白がったり理解しているふりをしているのかもしれないが、心の奥底では普通に生きた方がいいに決まっていると思っている可能性は非常に高いし、もっと心の奥底では他人と違う生き方をする人など失敗すればいいのにと日本人らしい呪いをかけているかもしれない。
・人間が真剣に生き抜いたならみんなと同じであることなんてできない

しかしぼくは思うが、人間が真剣に自分の信念を燃やして人生を生き抜いた時に果たして、本当に他人と同じように普通に生きることなんてできるのだろうか。そんなことはできないとぼくは断言する。ぼくたちが有象無象渦巻く人間世界を徹底的に観察・研究し、さらに自らの内なる声と対峙するように怠ることなく修行を積みながら、必死に情熱的に燃え盛るようにこの生命を生き抜いたなら、その衝撃と反動で”普通のレール”から思いっきり外れてしまうのは至極当然の成り行きだ。
逆に言えば”普通のレール”に収まっているような種類の人間は、何も考えずぼーっとしながら人生を真剣に生きていないか、自分が何が好きで何をしたくて何をするために生まれたきたのかという使命など、自らの内なる声に向き合おうとする努力をほとんどしていないか、それだけの知能や感性や行動力を育んでいないか、もしくは臆病で怠惰な性格なので普通ではない人生に立ち向かうエネルギーを持ち合わせていないのかもしれない。それならそれで他人の人生なのだし特に何も口出しするつもりはないが、ただひとつだけ言いたいのは、自己の感性を最大限に研ぎ澄ませながら必死に、真剣に、遡上するように生きている普通ではない美しい魂たちの邪魔をするなんて言語道断だということだ。
人間が人を本当に愛したならば必ずそこには苦しみが伴うように、まさにそのようにして、人間が真剣に生命を生き抜いたなら必ずそこには普通ではないという受難が降り注ぐ。
・創造的に生きる炎は永遠に消えることのない灯火
自分自身と真剣に向き合いながら、自分自身の情熱や使命を見出し、自分自身に素直に生き抜いている魂たちが、まともな軌道を外れたならば、それは普通ではないという意味で誰の真似でもない分、自然と独特となり、独自となり、これまでに見たこともないような特別な軌道を描き出す。それは紙に詩を書くようでもあり、それはキャンバスに色を重ねるようでもあり、それは天に向かって歌を生み出すようでもある。
普通ではない軌道は何もないところに存在を生み出すという点で創造的であり、芸術的であり、その結果としてどのような創造物が出現するのかは、今まさに生み出しているアーティストですらも最後まで分からない。普通の軌道の先には何があるのか、それを予測するのは普通の人々の人生をなぞっていけばいいだけなので容易いが、普通ではない軌道は誰の真似でもない創造物である分、その先で何が起こるのか見当も付かない。
何があるのか分からないことを恐ろしいと臆病に感じるならば、普通の軌道を歩めばよいが、何があるのか分からないことをむしろ無上の喜びと感じるならば、それは普通ではない創造的な軌道に導かれている合図だ。普通ではないこと、人と違うということ、みんなと同じではないということに傷付きながら、恐れながら、苛まれながらも、ぼくたちは一瞬一瞬を燃え盛るように生き抜いて、誰の真似でもない自分だけの新しい軌道を描きながら旅路を創造していく。
みんなと同じであろうと、みんなと同じでなかろうと、間違いであろうとそうでなかろうと、ぼくたちの旅路の先には死という旅立ちが待っている。誰もに等しく訪れる死という瞬間の先でさえ、残存し続けるものはなんだろうか。肉体は滅びるだろう。心も霧のように消えるだろう。けれど創造的に生き抜こうとするこの絶え間ないエナジーはどうだろうか。炎を決して絶やすなと天は告げている。どんなに傷付きながらでも、どんなに恐れながらでも、どんなに軌道を外れても、まるで詩を書くように、まるで絵を描くように、まるで歌を歌うように、ぼくたちは創造的に生きることを決してやめてはならない。その灯火はやがて道標となり、自分自身の魂の行く先を照らすだろう。
・ぼくが旅に出る理由の記事一覧
