おったまげた!
おったまげた!「魂消る」という漢字から考察する沖縄と日本の魂の仕組み
・たまげると沖縄
・琉球諸島への直感
・沖縄の精神世界
・まぶやー(魂)と「魂消ると」に見る琉球諸島と日本のつながり
・まぶやー(魂)の大事件
・たまげると沖縄
「たまげる」というのは「魂消る」と書くらしい!
これにぼくはおったまげた!いったいどういう由来でこのような漢字があてがわれたのだのだろうか。そして「たまげる」という言葉の本来の由来とは?インターネットで調べればいくらでも情報が出てくる疑問だろうが、ぼくはこの「魂消る」という漢字を見た途端に、頭の中に民俗学的な妄想が直感として一瞬にして燃え上がったので、自分の全く根拠のない妄想をここに記載しようと思う。
そうはいったもののまったく適当なことをベラベラと喋るわけではない。一応は沖縄に10年間生きてきたという自分自身の履歴が、この話の根幹には存在している。
・琉球諸島への直感
沖縄、琉球諸島は不思議な島だ。ぼくは大学で医学を学ぶために沖縄に移り住んだが、それまで沖縄という場所を訪れたことがなかったから、全くどのような場所かわからなかった。なんだってそんな見ず知らずの場所の大学に進学しようと思ったのかというと、暖かいところが好きだったから、ただなんとなく直感で選んだのだった。
季節だって夏が大好きだし、太陽の光に当たるのも好きだし、夏の風景そのものも好きだ。クーラーが嫌いなので、夏はクーラーなしで自然の風と扇風機のみで過ごして夏の空気と同化しながら過ごしている。自分の遺伝子が夏のような風土を、南の島々を求めているのではないかと思えるほど、沖縄に行くことになんの疑いも持たなかったのが不思議である。沖縄に来るまでの受験勉強の1年間でSPEEDやCoccoをなぜかよく聞いていたことも何かの縁だろうか。
沖縄に来る前は、沖縄といえば「青い空」「白い雲」「南国リゾート」というようなイメージが思い浮かんでいたぼくであるが、沖縄に10年住んでみて全く印象が変わってしまった。青い空も、白い雲も、それ自体には間違いはないのだが、そんな軽薄なものよりももっと重要な気配が、この島には隠されていたのだ。沖縄とは、極めて”精神的な場所”である。
・沖縄の精神世界
”精神的な場所”と言っても、抽象的な表現だろうか。沖縄の人々は、精霊とか、お化けとか、神様とか、そういう精神的な世界とごく自然に持っており、その観念を通して日常生活を歩んでいる。内地の人(沖縄でない人)が、精霊や幽霊や神様のことを語るときには、ちょっと冗談半分であんまり信じないような、からかい合いながら語り合うことが通常であるが、沖縄の人々はまるで違う。素の顔で、信じるのが当たり前のような感じで精神的な会話が繰り広げらえるのだ。最初のうち、それはカルチャーショックでもあった。
沖縄にはそのような精神的な祈りごとをする役割の人が、周囲にたくさんいる。”ユタ”とか”ノロ”などと呼ばれ、琉球王朝時代から国家によって祈りごとや神事を任されていた、内地でいうと巫女のようなものに近いだろう。しかし巫女のように神社にしかいないのではなく、ユタの人は近所のそこらへんで普通に生活しており、仏壇へのお祈りや悩み事を聞くときになると、日常の中でその役割を果たしているのだ。
ユタには女性が多いが、時々男性のユタというものも存在する。彼らの性質は”神高い”と言われ、神様との感受性が高いという。昔から見えないものが見えたり、年をとってから急に神様の声が聞こえるようになったりするらしい。ぼくは病院で働いていたが、患者さんにもユタだという人がたまにいたし、それは女性であることも男性であることもあった。また看護師さんにも「私はユタに近いような、神高なんだよねー」という人もいた。そしてそのことを、誰もおかしなことだとは思っていない。そのように神様と繋がる人が身近にいるということが、沖縄の人々にとっては自然なことなのだ。
・まぶやー(魂)と「魂消ると」に見る琉球諸島と日本のつながり
また、沖縄の人はとても驚いたときにまぶやー(魂)を落としてしまうと考える。どういう仕組みでそのような考えなのかわからないが、伝統的にそのようなことになっているのだそうだ。そしてものすごくびっくりしたときには魂を地面に落っことしているので、それを自分で拾い上げなければならず、地面から自分に向けて手招きし「まぶやーまぶやー」と呪文を唱えるのだ!このように「まぶやーまぶやー」と唱えれば、落とした魂は自分の体に戻っていくらしい。
このような儀式は年寄りのおばあだけがやっているわけではなく、同級生の沖縄の女の子も普通に日常でやっていたので、その文化の根深さがうかがえる。まぶやー(魂)というものは、沖縄の人にとって、落としたり拾ったりするものなのだ。ぼくたち内地の人は、そのような観念を持ち合わせていない。魂と言ったって身近な言葉でもないし、それを信じていても、体にがっしりとくっついていて、死にでもしない限り自分からは離れていかないような気がする。しかし、沖縄の人にとっては、魂は日常でよく使うくらい身近な存在なのだ。
そのような沖縄的知識を当然のように持っていたので、「たまげる」という言葉を「魂消る」と書くと知ったときには、本当にたまげた!なんとそこには魂を消すと書いてあるではないか!そしてたまげるというのはびっくりするという意味だ!
これから察するに、古来では日本人も、驚くと魂が消えてしまう、なくなってしまうと考えていたのだ!これは沖縄の、魂を落とすという観念によく似ている。というか、同一と言ってもいいだろう。沖縄も昔の日本も、魂という概念できちんと共通していたのだ。これはぼくにとって驚くべき事実だった。
沖縄の人が「まぶやーまぶやー」という文化なんて、日本とは全く異質の異文化だと思い込んでいた。それゆえにやっぱり同じ日本でも沖縄は外国みたいだなぁと思っていた。しかし事実はそうではなかったのだ!日本も沖縄も、もともと共通の魂の概念を持っており、激しく驚くと魂を落とすという考え方まで一緒だったのだけれど、時代が進むにつれてその概念が日本からは消えて沖縄にだけ残り、そして日本ではその概念は「魂消る」という漢字としてしか残存しなくなったのだ。沖縄だけが、古い日本の魂の観念を大切に保ち続けてくれていたのだ!
・御嶽は何もない神聖な場所
このような事実は、「祈りの場所」にも見つけることができる。沖縄では祈りの場所を「御嶽(うたき)」と言い、それは通常何もない原っぱであることが多い。たまに、ちょっと石や気が置いてある程度で、その他には何ひとつ置かれない、森の中の無の空間だ。そこで沖縄の人々は神事を取り行ったりお祈りしたりする。
内地では、祈りの場所(=神社)には、立派で壮麗な建物があることが普通である。また仏教的な寺院にも、荘厳な仏像が安置されていたりする。それは宗教的観念を具象化するとともに、美しさにより人々を集める狙いもあったことだろう。
しかし、沖縄の御嶽を見て、あの芸術家の岡本太郎はひどく感動する!そして祈りの場所とは、本来このように何もないべきと主張する。何もないことが神聖であり、建物や物質があるということなど祈りにとって野暮だというのだ。そして本来は内地でも沖縄の御嶽のように何もない祈りの空間がたくさんあったのに、今は物質や形骸にまみれて、神聖な何もない祈りの場所を失くしてしまった。沖縄だけが、何もないという本来あるべき祈りの場所の姿を、日本で唯一保ち残しているのだという。
ここでも沖縄の御嶽と日本の神社は、異文化だったわけではなく、本来どちらも沖縄の御嶽のような祈りの場所だったものが、時代を経ると日本だけがだんだん変わって行き、本来の日本の姿は沖縄にのみ残存するようになってしまったというのだった。魂消るという観念に似ている。
・まぶやー(魂)の大事件
魂を落とした話として、ぼくの友達で身近に起こった出来事がある。
ぼくの大学の友達のうおちゃんが家庭教師のバイトをしていたのだが、その教え子のお母さんがユタだったそうだ。既述したように、ユタは日常の中で普通のおばちゃんだったり、おばあだったりする。うおちゃんは家庭教師先に行くなり、そのユタのおばちゃんに見抜かれてこう言われた。
「あんた、まぶやーをどこかに落としているよ!何か最近びっくりしなかった?」
なんとうおちゃんは自分でも知らないうちに、まぶやー(魂)をどこかに落としてきたらしく、今もまだないというのをユタのおばちゃんに教えられたのだ。うおちゃんは部活でラグビーをしており、最近試合でものすごく強くタックルされてたことをユタのおばちゃんに話した。ユタのおばちゃんは
「きっとそれでびっくりしてまぶやーを落としたんだね!このままだとよくないことが起きるよ!今すぐ拾ってきなさい!」
と言うのだった。まぶやーを拾い上げるためには、まぶやーを落とした場所に行かなければならない。うおちゃんはそのとき大学近くの沖縄の南部にいたのだが、ラグビーの試合があってまぶやーを落としたであろうところは沖縄の北部の運動場だった。車で2時間はかかる。それでもユタのおばちゃんが熱心に勧めてくるので、仕方なくうおちゃんは沖縄北部へと2時間のドライブを敢行した。
しかし、やっとこさ運動場にたどり着いたのはいいものの、どこで落としたか検討もつかない。しかも、どうやってまぶやーを自分の体に戻したらいいのかもわからない。うおちゃんは困ってユタのおばちゃんに電話した。
するとユタのおばちゃんは、前へ何歩進みなさい、右へ何歩進みなさいと言って、電話越しに支持して、まぶやーの落とした地点へうおちゃんを誘導したという。そしてまぶやーを落とした場所にたどり着くと、「地面をトントンとしなさい」という指示が下された。
うおちゃんが地面をトントンとすると「よし!もう大丈夫!戻っておいで!」と言われてそれで終わったそうだ。なんとも不思議な、魂の次元の中を生きている沖縄らしい出来事である。