自分自身の願いを叶えることではなく、他人の役に立つ労働が「人生の目的」であるというのは本当か?

 

人間は労働するために生まれてきたのだろうか。

自分自身の願いを叶えることではなく、他人の役に立つ労働が「人生の目的」であるというのは本当か?

・「人間は何のために生まれてきたのか」の模範的回答
・”人間の集団”の狙いは、人間個人を集団にとって都合のよい部品にすること
・自分自身の願いを叶えることではなく、他人の役に立つ労働が人生において最も重要な行為であるというのは本当か?
・自分の根源から押し寄せる純度の高い「人生の目的」を知るために

・「人間は何のために生まれてきたのか」の模範的回答

「人間は何のために生まれてきたのか」と問われれば、典型的で模範的な回答として「他人や社会の役に立ち、人々を幸せにするために生まれてきた」という回答が存在する。就職や大学の面接試験でこのように答えればいかにも常識人として見なされそうな白々しい回答であるが、実際のところはどうなのだろうか。本当に人は、他人や社会の役に立つために生まれてきた生き物なのだろうか。

たとえば「人間は何のために生まれてきたのか」という質問に対して、「自分の望みや願いを叶えるために生まれてました!」と答えてしまえばどのような印象を与えるだろうか。なんとなく自分のことしか考えていない自己中心的な人物として世間から敬遠され、見下されそうな雰囲気はないだろうか。しかし本当のところ、ぼくたちは自分の望みや願いを叶えるために生きているのではないだろうか。けれどそう言ってしまえば自分のことだけしか考えていない最低な人格だと見なされてしまうのが怖くて、何となく他人の役に立ちたい人のフリをして世間を欺いていないだろうか。

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人間という生き物は”自我”を獲得しているのだから、自分のことを第一に考えるのは当たり前のことだ。それが自我を持った人間の宿命であり、他の誰のことよりも自分自身のことを重要であると見なし、大切に考え、自分を幸福にすることを人生の最大の目的とすることは当然である。それなのにぼくたちはどうして、自分のために生きていると言うことをためらわなければならないのだろう。「自分自身を幸せにするために生きている」「自分の願いを叶えるために生きている」と言い放つ人よりも、「他人を幸せにするために生きている」「他人の役に立つために生きている」と言う人の方が立派だと賞賛される傾向があるのはどうしてだろう。

 

 

・”人間の集団”の狙いは、人間個人を集団にとって都合のよい部品にすること

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”人間の集団(社会)”の狙いは、個人が”人間の集団”にとって都合のよい、生産性の高い部品としてその生命を機能させてもらうことにある。自分自身の個人的な願いや幸福を追い求めるよりも、それらを諦め犠牲にしてでも”人間の集団”のために尽くすというのが、”人間の集団”の考える人間の個人の理想像である。それゆえに”人間の集団”は、自分個人の願いを叶えようとする者たちよりも、そんなことは犠牲にしてでも人間社会や人間全体のために尽くす人格の方が素晴らしく優れているのだという空気や風潮を世間に生み出すことを望んでいる。

「自分のために生きていきたい」と言う人よりも、「他人のために生きていきたい」と言う人の方が立派であるかのように見えるのは、その洗脳がしっかり成功している証ではないだろうか。しかし繰り返しになるが、人間は”自我”を持ってしまった以上まずは自分自身の幸福を優先して追い求めるのが本当ではないだろうか。そして自分自身の幸福を成し遂げたことを前提としてその先に、他人や社会の幸福を追求すべきではないだろうか。自分自身の幸福という地盤なしに他人の幸福など追い求めても、すぐに崩れ去る偽物の蜃気楼で終わるのではないだろうか。

 

 

・自分自身の願いを叶えることではなく、他人の役に立つ労働が人生において最も重要な行為であるというのは本当か?

ぼくたちの人生を考える上で、「労働」が人生の大きな目的であるという風潮が何となく世間では成立している。人間が若く輝かしい何でもできる期間の大半を労働に費やすことは当然だと考えられているし、日本においては労働は「国民の義務」のひとつであるとまで言われる。労働をしてこそ人間は価値を持つのだという観念は、世間に根深く深く浸透している。

「労働」とは簡単に言えば、他人の役に立つ行為をすることだ。給料をもらえるから自分のためであるとも言えるが、他人の役に立つ行いをすることでそのお返しとして自分自身の生活の糧にもなる給料をもらえるという仕組みとなっている。他人の役に立つことが、自分の生活の役に立つことに転換されるのだ。

労働を人生の最大の目的と見なさせることは、個人の幸福を犠牲にしてでも人間社会の利益を優先させるように仕向けたいという”人間の集団”の願いと一致する思想であり、ぜひとも人々の間に浸透させたい考えだろう。そして実際に人間は人生において、自分自身の願いを叶えることよりも、他人の役に立つという労働の方が優れた行為であると見なすような傾向にある。ぼくたちの人生は自分のためにあるのではなく、他人のためにあるのだと思い込まされ、自分自身の願いや望みを何となく曖昧に置き去りにしたままで、とりあえず他人の役に立つ労働の日々を送ることで、普通の人間になれたと安心するのみである。

 

 

・自分の根源から押し寄せる純度の高い「人生の目的」を知るために

ぼくたち人間には様々な願いがある。美味しい食べ物を食べたいとか、ぐうたらと思う存分休みたいとか、美女を侍らせたいとかいう割とどうでもいい願いから、人生の全てをかけてでも叶えたい、安定した生活や命さえ失ってでもどうしても叶えたいという情熱的な願いまで、人の願いは多岐に渡るだろう。

自分自身の中に直感的な願いや使命を見出せないのならば、仕方なかろう。しかし自分の根源に疑いようもない、確かで絶対的な願いや使命を感じ取る能力があるのなら、それがどんなに他人の役に立たなくても、世の中で労働として成り立たなくても、この世界に生まれてきた自分自身の魂や生命のために叶えるべきではないだろうか。

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自分自身の願いや使命を見出せない者たちからは、自分のためだけに生きているなんて滑稽だと非難されるだろう。密かに陰口を言われるかもしれない。しかしそれは自分自身の中にある願いや使命を自分自身で感受するための受容体を持たない者たちの、明らかな嫉妬である。自分は自身の個人的な願いを叶えることを我慢して他人の役に立っているのだから、他の誰もが自分と同じように我慢して何となくつまらない労働に従事すべきだという、自分の願いさえ発見できないにも関わらず発揮される根拠のない傲慢である。自分自身と真剣に向き合い、自分の中にある願いや使命へと直面するための感性を持つことがないから自分は何のために生きるべきなのかわからず、”人間の集団”にただ洗脳されるがままに他人の役に立つ労働でただ何となく人生の時間を費やすしかないようでは、彼らの魂はおかしな違和感の中を虚しく彷徨うのみだろう。

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しかしもしも受容体を持っているのなら、安定した生活など手放してもいい、死んでしまっても構わないと思うほどに、叶えたい願いや使命を自分の奥底に感じるのなら、それは軌道から逸脱する旅立ちの合図だ。他人や社会の役に立つ労働を潔く中止し、自分自身の願いのためだけに生き抜く期間を人生に設けることで、”人間の集団”の都合から押し付けらることのない、自分の根源から示される純度の高い「人生の目的」に手が届くだろう。

他人や社会の役に立つこと、すなわち労働が人生の中で最も重要な行為だという洗脳を抜け出して、徹底的に自分自身のために生き抜く透明で純粋な美しい時代は、魂に真実の光をもたらすはずだ。その光を携えて、今度は徹底的に他者のために生き抜く力を蓄えるのもよかろう。

 

 

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