家族という脅威の無料サービス!何をするにもお金を払うのが当たり前だというのは本当か?

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よくよく考えてみたら家族ってめちゃくちゃ不思議じゃない?????

家族という脅威の無料サービス!何をするにもお金を払うのが当たり前だというのは本当か?

・何をするにもお金を払うのが当たり前だというのは本当か?
・家族はお金を媒介としない最も身近な人間関係
・家族は無料で食事を作って皿洗いまでしてくれる
・同じ行為でも愛によってそれが労働かどうか決まる
・愛を伴わない労働や商売の醜い正体
・全ての人に対する愛がお金に代わってしまった原因
・人間は本質的な愛を喪失することはできない

・何をするにもお金を払うのが当たり前だというのは本当か?

ぼくは世界一周する旅人だが、人間というものは何をするにもお金がかかるものだなぁと実感する。例えば電車やバスやタクシーに乗って移動するにも当然お金を支払うし、ホテルや旅館に泊まるためにも高額な料金が必要になるし、レストランで食事をするのもお金なしでは不可能だ。

別に旅なんかしておらず労働しながら生きる一般的な人々でもスーパーマーケットで食材や日用品を買ったり、通勤・通学のための電車代などの公共交通機関の代金を支払ったり、家賃やガス代や水道代が毎月口座から引き落とされるなど、何をするにもお金がかかるということを痛感しながら生活しているはずだ。

人間というものは、普通に生活をして生きているだけでお金がかかってしまう宿命にある。ぼくたちはこの人間社会の中で何をするにもお金を支払うことに慣れすぎて、何ひとつ疑問を持つこともなく、そんなこと当たり前じゃないかという気持ちでせっせと必死に労働して貯めたお金を全てのことに使い果たして経済を回していく。

しかし果たしてぼくたちはこんなにも何でもかんでも、本当にお金を奪い取られなければならないのだろうか。人間が生きていく上でお金が重要なことは言うまでもないことだが、お金を媒介としない人間関係や行動は本当にこの世に存在しないのだろうか。

 

 

・家族はお金を媒介としない最も身近な人間関係

あらゆるサービスにお金がかかってしまいそうなこの人間社会において、その例外を発見することは意外と容易い。なぜならお金を要求されない、お金を媒介としない人間関係がほとんどの人々にとってとても身近に存在しているからだ。その重要な人間関係とは「家族」である。

例えば子供が塾に行く際の送り迎えは家族である親がしてくれるが、当然ながらそれは無料の行為だ。子供が塾へ通うための車を親が出してくれて、塾に到着したら「はい、1000円になります」などと親からお金を請求されたら子供もさぞかしびっくりすることだろう。当たり前だがそのような親子関係は存在しない。

しかしよくよく考えてみればこれは驚愕の事実ではないだろうか。なぜなら親がやっている行為は、タクシー運転手と変わらないからだ。もしもタクシー運転手ならば毎日塾に送り迎えしていたらお客である子供から多額の料金を支払ってもらえるものを、それがただ親だからという理由で1円すらもらえないというのはかなり不思議な経済的現象である。

同じように大きく成長して車を持った孫がおばあちゃんをスーパーマーケットに送ってあげた場合なんかも、そのサービスはタクシー運転手さながらだが、おばあちゃんからお金をもらうことはない。その理由はただ、彼らが家族であり血縁関係にあるからに他ならない。またこれは血縁関係のみならず家族である夫婦関係の場合も当てはまる。夫婦ならば最寄りの駅までお互いに車で送り迎えしても当然だろう。

 

・家族は無料で食事を作って皿洗いまでしてくれる

同様に食事だってかなり興味深い。親は子供のために毎日せっせとご飯を作ってあげるのに、子供がその対価として親にお金を支払うことは絶対にない。親が食事を作ってくれるのは当たり前の行為だと言わんばかりに、毎日パクパクと元気にご飯を貪るだけだ。しかし冷静に考えれみればもしもレストランで働いていて毎日献立を考えて料理を作ったならばお給料という名のお金をもらえて当然だし、料理を食べさせた相手から料金をもらっても全然不思議ではないのに、全く同じサービスを家庭内ですると0円で済ませられてしまうというのだからとても面白い現象だ。さらに料理を作ってもらって食べさせてもらうだけではなく、家族は皿洗いまでやってくれたりもする。このように家族や血縁の間では、知らず知らずのうちに様々な無料サービスが機能し合っている。

 

・同じ行為でも「愛」によってそれが労働かどうか決まる

ほとんどの人間は自分の人生の大切な時間を切り売りし、本来は自分のために自由に使いたい若く健康で貴重な時間を他人の役に立つために費やし、労働に従事することで収入を得ている。その労働の例として、先ほど挙げたようなタクシー運転手や料理人が挙げられるだろう。では「人間を車に乗せて運んでいく」という行為そのものは全く同じなのに、なぜタクシー運転手だけはお金がもらえて親は子供からお金をもらわないのだろう。同様に「人間のために料理を作る」というサービス自体は全く変わらないのに、なぜそれがレストランの料理人の場合はお金を儲けることができて親の場合には金銭を稼ぐことができないのだろう。

明白な違いはその行為を行う対象が、他人か家族かということだ。誰も見ず知らずの他人に料理なんか作りたくない、しかしお金を支払ってくれるなら仕方ないから料理を作ってあげるよというのが、レストランの料理人が料理を作ればお金を受け取れる理由なのだろうか。一方で自分は家族である子供を愛している、この子が喜んで食べてくれたり成長してくれるのであれば、お金なんか要らないからどんどん進んで料理を作ってあげたいという気持ちが、無料の食事へと繋がっていくのだろうか。タクシー運転手なんかそれがもっと顕著で、赤の他人を自分の車に乗せたりしたら何をされるかわからないし最悪の場合強盗されるかもしれないのに、そんな様々なリスクを考慮しても生きていくためのお金をもらえるなら仕方ないということで、知らない相手を自分の車で運んでいるに違いない。

つまり突き詰めて考えると、お金をもらうかもらわないかは「愛」によって左右されるのではないだろうか。すなわち自分の愛する家族や親しい人々のためであるならばそれは自分がやりたくてやっていることなのでお金は要らない、一方で当然赤の他人に愛情を抱くことはないのでお金をもらわなければその人の役に立ちたいなんて思わないということだ。そのような人間の経済的社会の本質を見抜いたならば、お金を媒介とする全ての労働や商売は何て醜いのだろうと思わざるを得ない。労働や商売とは、愛がないからこそ成り立つ行為だったのだ!

 

・愛を伴わない労働や商売の醜い正体

ぼくたちはできることならば、全ての人々を愛したい。それが人間としてふさわしい姿だと誰もが知っているからだ。しかし現実にはそんなことは不可能だ。この世には自分では把握し切れないくらいの数多くの人間が住んでいて当然合わない人や嫌いな人、または自分に危害を加える悪人もいるだろう。キリスト教の教えのように全ての他人を愛することができるほど、この世界は甘くないように感じられる。しかし一方でできる限り多くの人々を嫌うことなく好きになろう、愛そうという意識を持つように努力することは人間として生きていく上でとても重要な要素なのかもしれない。

誰を愛しているのか、好きなのか、愛していないのか、嫌いなのか、ぼくたちは明確な線引きをしないままただ何となくぼんやり生きていると思っていた。しかし実際にははっきりとした愛の境界線があったようだ。そのひとつが「お金をもらうか」「もらわないか」だ。お金をもらえるほどの価値ある行為を誰かのためにした時、その人からお金をもらわないならば愛情を抱いている、その人からお金を取るならば愛のない赤の他人だと大まかに判断できるのではないだろうか。

冒頭で書いたようにぼくたちはこの人間社会においてほとんどの場合、何をするにもお金がかかってしまう。すなわちそれはぼくがほとんどの人にとって愛していない赤の他人、見ず知らずの他人であるということを意味している。ぼくだけではなくて毎日お金を支払いながら生きている全ての人々が、愛されることのない他人だという事実を突きつけられている。そう考えてみればお金が巡回する経済社会とは、何と冷酷で寂しい世界だろうか。もしも彼らがまるでお母さんのようにぼくのことを愛してくれているならば、絶対にぼくからお金を奪い取らないはずだ。お金を徴収する彼らの笑顔の裏には、愛がないという確固たる秘密が隠されている。

 

・全ての人に対する愛がお金に代わってしまった原因

本来人間が何かしらの行動を引き起こす時には、その人のために何かしてあげたいという純粋な気持ちが原点にあるはずだ。そこには損得勘定も存在せずお金も媒介せず、まさに家族の中のような愛情のみで繋がり合う関係性が成り立っているのだろう。ぼくたちは本当にまるで家族を愛するように、見ず知らずの他人を愛し、思いやり、行動することができないのだろうか。家族であろうと友達であろうと恋人であろうと道行く人であろうと関係なく、本来あるべき人間関係というのはそのように愛を媒介とするものであるべきだと思えてならない。それなのにどうしてその「愛」が今の現代社会では「お金」に代わってしまっているのだろうか。

やはりその原因はぼくたちが「資本主義」という、人生の目的がお金を最大限に稼ぎ出すことだという考えに基づいた社会を生き抜いていることにあるのかもしれない。ぼくたちは限りある人生の時間の中から若くて健康で何でもできる貴重な時間を切り売りして、他人の役に立つ労働に費やしている。その理由はお金を稼いで、生きていくための生活費を賄うためだ。それは人間らしい生活をしたければ労働せざるを得ない状況に追い込まれ、生命維持を人質に経済的社会システムの中で強制的に働かされていると言い換えることもできるだろう。ぼくたちは「他人の役に立ちたい」と素直で純粋な気持ちで自発的に思う以前に、「他人の役に立たなければならない=労働しなければならない」という強制労働に巻き込まれてしまっている。

「他人の役に立って(=労働して)お金を稼がなければ生きられない」という無理矢理な社会システムの中で、人間に対する本質的な愛を思い出しながら「他人の役に立ちたい」と自然と願う感覚を取り戻すことは容易なことではない。誰もが労働せざるを得ず、知らず知らずのうちに他人の役に立っているからこそ、他人の役に立ちたいという自らの願いが、果たして人間本来の純粋な思いなのか、はたまたこれまでと同様に強制的に思い込まされているだけなのかわからずに混乱してしまうだろう。人間らしい生活を実現させるために「お金」を稼ぐことに必死で心の余裕を失い、人間本来の「愛」や「思いやり」を見失ってしまうこの現代社会において、ぼくたちは「愛」を奪われないために何ができるのだろうか。

 

 

・人間は本質的な「愛」を喪失することはできない

「愛」があればお金を取ることをせず、「愛」がなければお金を奪い取り労働とすることが通常であるこの世界において、もはや人間全体に渡る広々とした「愛」は滅んでいるかのようにさえ見える。しかし人間の最初単位である「家族」においてまだ「愛」が息をしている以上、人間から根こそぎ「愛」を奪い取ることは不可能なのかもしれない。人間が人間である以上、本質的な「愛」を喪失することはできない。

「お金」を媒介とせず「あなたのためになりたい」と他人に対して思いやることが困難なこの労働社会の中で、ぼくは労働という支配から抜け出して旅人になるという選択肢を取った。人間世界に根差す「労働」や「お金」や「愛」の複雑な関係性やその正体を見極めるためには、まず一旦その中から脱却し客観的に観察しなければならないと直感的に感じていたからだ。ぼくたち人間の本質は何であるのか、ぼくたちは何に支配されているのか、ぼくたちの世界はどのような仕組みで何によって突き動かされているのか、引き続き旅をしながら考察していけたらと思う。

 

 

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