ぼくたちは平和のために嘘をつかねばならない。
嘘をついてはいけないというのは本当か? 〜中島みゆき「問う女」の「PAIN」〜
・嘘をついてはいけないというのは本当か?
・嘘をつくことにより社会の平和は保たれる
・たかが言葉なんて、聞かなくてもいいだろう
・中島みゆき夜会「問う女」より「PAIN」
・言葉とは本来どのようなものだったのだろうか 〜言霊〜
・今、言葉は氾濫している
目次
・嘘をついてはいけないというのは本当か?
ぼくたちは幼い頃、両親や大人たちから道徳として「嘘をついてはいけない」と当たり前のように教えられる。それゆえに子供たちは、人間は嘘をつかないで生きて行かなければならないのだと疑わずに信じ込む。しかし大人になるにつれて、人間の世の中は嘘ばかりにまみれていると知ることになる。
腹の底ではごめんなさいと思っていないのに「申し訳ございません」と言い放つ人々、心の中ではありがたいとそんなに思っていなくても礼儀として「ありがとうございます」と丁寧に感謝する人々、本当はこれっぽっちもわかっていないのに上司に「わかりました」と服従を示す部下たち。
人の世は嘘であふれている。幼い頃にあんなに「嘘をついてはいけない」と教えてくれた大人たちが、今度は寄ってたかって嘘をつくことや空気を読むことを推奨し、強制してくる。それもこれもすべて、人間社会を円滑に回すための術なのだ。
・嘘をつくことにより社会の平和は保たれる
ものすごく変な服を着ている自分より目上の人に「今日は変な服着てますねー!!全然似合ってないですよ!!どういうつもりでそんな服を着ているんですか?!」と自分の心に嘘をつかずに正直に自らの意見を主張したのでは、社会的秩序を保てない。どんなに相手の目上の人がとてつもなく変な服を着ていても、自分の心に嘘をついて「その服はとてもよくお似合いですね」と笑顔でコミュニケーションを取ることで世界平和は訪れる。
この場合「嘘をついてはいけない」という道徳的観点からみれば彼の行動は大いに間違っているが、社会を平和に且つ円滑に回していくべき社会人的観点から見ると、彼の発言は模範そのものである。実際にぼくたちが彼を見たところで、彼が間違っていると指摘する者は誰もいないだろう。もし彼の行動を見て「どうして嘘をつくんですか?!あなたはとんでもなく変な服だと心の中で思っていますよね?!嘘つきは泥棒の始まりですよ?嘘なんかついちゃダメじゃないですか!!」と非難する者があるならば、その人こそが社会不適合者だと見なされることだろう。
ぼくたちは成熟した大人として、人間社会に属する社会人として、ありがとうと思っていなくても「ありがとうございます」と感謝し、ごめんと思っていなくても「申し訳ございませんでした」と深々と頭を下げ、そんな考え方はおかしいと強く感じていても「わかりました」と笑顔で上司に答えるべきだ。誰もがひどい嘘つきになり、誰もが我慢をしながら本心を隠すことで、人間社会は円滑に平和に回っていく。それこそがすべての人間の願うところであり、たとえ自分ひとりが我慢してひどい嘘つきとなり悪人となることで犠牲になっても、人間社会という集団の平和を守れるのならばそれでいい。そのように各々の人間たちが信じ込むことによって、人間社会は成立している。
しかし置き去りにしていたぼくたちの内に住む少年が、成熟した大人であるぼくたちに必死に泣いて呼びかけている声が、あなたにも聞こえないのだろか。「嘘をつきたくない」「悪人になりたくない」「正直に生きたい」「我慢したくない」「本当のことを表現して世界を生きたい」。そんな風に声を枯らして泣き叫ぶ声が、あなたにも聞こえないだろうか。
・たかが言葉なんて、聞かなくてもいいだろう
嘘の言葉たちが洪水のようにぼくたちに押し寄せてくる社会。嘘の言葉の水に毎日溺れて、息ができなくてももがきながら必死に生き延びていかなければならない世界。ぼくたちは人間社会の平和をあまりにも重視しすぎたことによって、個人が我慢して嘘ばかりつかされる浮世において次第に人の言葉を信じなくなる。聞かなくなる。否定するようになる。どうせあらゆる言葉は嘘なんでしょうと、人間の世界では言葉を信じるだけ無駄なんでしょうと、言葉の持つ神聖な力を見失ってしまう。
もはや聞き取りたい言葉なんて何もない。聞き取りたい心なんて何もない。偽りの平和のための嘘ばかりなら。もはや告げたい言葉なんて何もない。告げたい心なんて何もない。どうせ嘘だと思われるのならば。
たかが言葉なんて、聞かなくてもいいだろう。たかが心なんて、知らなくてもいいだろう。定型分だけの世渡りのための生命ならば。そこに真実が込められていないのならば。
・中島みゆき夜会「問う女」より「PAIN」
”呼びかける 呼びかける
問いかけは街にあふれても
ふり向けば ふり向けば
吹きすさぶ風ばかり
荒野の中 誰の声も聞かぬ一日
荒野の中 誰の声も聞かぬ一生”
・言葉とは本来どのようなものだったのだろうか 〜言霊〜
言葉とは本来、そのようなものだったのだろうか。本当の心が託されない、本当の思いが込められない、本当の自分を表現できない、ごまかしや偽りや虚栄心だけを注ぎ込む、醜い器だっただろうか。
言葉とは本来、どのようなものだったのだろうか。ぼくたちはどのように言葉を覚え、どのように使い、どのように人と言葉を分かち合ってきただろうか。それは社会のためだっただろうか。それは他人のためだっただろうか。それは嘘をつくためのものだっただろうか。
それは人が、自分自身の内側から押し寄せる精神の宇宙を必死に表現しようとして、自分にしか見えない景色をなんとか共に生きる仲間にも伝えたいと心から願った結果として、この肉体から解放されるものではなかっただろうか。
・今、言葉は氾濫している
情報化社会になって、以前よりも言葉が満ちあふれている。ぼくたちは毎日何千何万の言葉に触れ、言葉を操り、それを駆使して他人や世界をとらえようとし、また自らを発信させようと努力する。今、言葉は氾濫している。そのような現代において、これまでよりも多くの言葉を受容することによって、果たしてぼくたちは以前の人間よりも賢くなっているのだろうか。進化しているのだろうか。
もしかしたら受け取る言葉が多くなったものの、含まれる愚かな言葉、否定の言葉、憎しみの言葉、小賢しい言葉、さみしい言葉、どうでもいい言葉が多すぎて、以前よりもっと生きにくく、退化しているのではないだろうか。この生命にふさわしくないもの、不要なもの、穢らわしいもの、余分なものを受信しすぎて、結局魂が穢されたという結果に終わってはいないだろうか。
言葉は確かに氾濫している。愚かな言葉にまみれている。けれどその中において、ぼくたちは真実の言葉をさがし出すことを、決して諦めてはならない。それは誰かが放っている。それは誰かが語っている。このような時代においても。あのような時代においても。
伝えたいと心を解き放つものが、この世のどこかにいる。心に帯びた熱を抱えきれずに、切実な言葉となって立ち現れた言霊が、世界のどこかに隠されている。それはさがし求める者にしか見つからない秘密。それは旅立った者にしか聞こえない約束。
本当の言葉を取り戻すために。真実の言葉に神聖に触れるために。ぼくたちは今日も孤独に旅を続けていく。愚かな言葉にはふり向きもせずに、真実だけを受容する鏡。
出会うのならば、この一生でたったひとりの人でもいい。聞くのならば、この一生でたったひとつの言葉でもいい。もしも真実に出会えるならば。
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