ブッダ「この世界は美しい 人生は甘美である」。
「この世界は美しい人生は甘美である」!仏教ブッダの思想とセーラームーン最終回に共通点があるというのは本当か?
・仏教の根本原理は「人生は苦しみである」ということ
・否定から生じたブッダの世界への肯定
・ブッダが「この世界は美しい 人生は甘美である」と言ったというのは本当か?
・セーラームーン無印最終回「この世界を信じてる!」
・セーラースターズ最終回「この世界が大好き」
・肯定は否定よりも困難だが否定よりもはるかに美しい
目次
・仏教の根本原理は「人生は苦しみである」ということ
仏教の根本原理は「人生は苦しみである」ということである。人生は生老病死(しょうろうびょうし)、すなわち人は誰でも生まれて、老いて、病んで、死んでゆく運命にあり、その決められた苦しみの連続から逃れられる者はない。どんなにお金持ちの王様でも、多くの人々を救った名医でも、意のままに人々を操れる権力者でも、生老病死の運命から逃れられる者はない。
人間は生老病死の観点からいえば誰もが平等であり、どんなに素晴らしいものを所有しているとか、どんな偉業を人生で成し遂げたとか、どれだけ輝かしい誉れと栄光を勝ち取ったとか、そんなことは御構いなしに、この世で立派だと言われている人も尊敬されている人に対しても、人間世界で見下されている人殺しや、泥棒や、変質者と同じように、あまりに等しく生老病死が降り注ぐのだから面白い。実は人間たちが賞賛したり羨ましがることなんて、天にとっては大した価値も意味もないことなのかもしれない。
そんな生老病死の苦しみと不条理に満ちた世の中を渡っていくにおいて、まずは「人生は苦しみそのものだ」と開き直り見なすことによって、逆にそこを起点として人生をいかに生き抜いていくかの覚悟を問うのが仏教の本質ではないだろうか。「人生は苦しみである」まずはここから仏教とブッダを理解していくべきである。
・否定から生じたブッダの世界への肯定
しかしそんな苦しみに満ちたはずの人生そして世界を、ブッダが称賛するという珍しい物語が現代に至るまで伝えられている。ブッダの生涯は謎に満ちているが彼が死へと旅立つ真理伝道の旅「ブッダ最期の旅」は、「大般涅槃経」別名「大パリニッバーナ経」として克明な記録が残され、今もなおぼくたちはそれを読むことができ、ブッダの死への旅に立ち会うことができる。
「大パリニッバーナ経」の中には、ブッダがインドのクシナガラで亡くなるまでの布教伝道の旅の様子が詳細に記されている。その旅の途中でブッダはヴェーサーリーに留まった際、次のようにおっしゃったと伝えらえる。
アーナンダ(ブッダの弟子の名)よ
ヴェーサーリーは楽しい
ウデーナ霊樹の地は楽しい
ゴータマカ霊樹の地は楽しい
七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい
パフプッタ霊樹の地は楽しい
サーランダダ霊樹の地は楽しい
チャーパーラ霊樹の地は楽しい
このように世界を賞賛した後、ブッダはこのように付け加えられたと伝わる。
この世界は美しい 人生は甘美である
・ブッダが「この世界は美しい 人生は甘美である」と言ったというのは本当か?
しかしこの「この世界は美しい 人生は甘美である」の言葉は、サンスクリット語からの翻訳には存在するもののパーリー語の経典には存在しない。だから本当にブッダがそこまでおっしゃったのかどうかは怪しいと言えるだろう。もしかしたら後の世の人が、ブッダに「この世界は美しい 人生は甘美である」と言ってほしくてどうしようもなくて、この句を付け足しただけかもしれない。
しかしたとえ本当にブッダがそのようにおっしゃらなかったとしても、そのようにブッダが言ったのだと世界中の多くの人々が信じ、その言葉に感動し、祈りを捧げ、現代の世の中まで「この世界は美しい 人生は甘美である」という言葉は引き継がれ、受け継がれてきたのだから、これは一種の人間の真実であるとも言える。ブッダがそのようにおっしゃらなかったとしても、そのように言ってほしいと人々が願い、祈り、その心が今まで仏教を伝える力になってきたのだから、偽物のブッダの言葉であったとしてもぼくたちはもはやこの言葉を無視するわけにはいかないだろう。
「この世界は美しい 人生は甘美である」という発言は、人生を生老病死の徹底的な苦しみと見なし、その否定的な起点から人生をとらえ直そうと努めるブッダとしては、あまりにも積極的に人生や世界を肯定しすぎているようにも見える。しかし今ぼくたちが考えたところで、大昔のその人が言ったとか言わなかったとか、そんなことわかりようもない出来事なのだった。
・セーラームーン無印最終回「この世界を信じてる!」
「この世界は美しい 人生は甘美である」のように世界への、そして人生への、まるで仏教の根本原理から真逆にあるような徹底的な世界への肯定を、仏教のお経の中のみならず最近でもどこかで見たような気がした。それはセーラームーンの最終回である。セーラームーンは5つのシリーズにわかれ、セーラームーン無印、セーラームーンR、セーラームーンS、セーラームーンSS、セーラースターズと5年に渡って放送されていた。それぞれに感動的で大迫力の最終回があり、その最終回にはそのシリーズで訴えたかった哲学の真髄がセーラームーンによって述べられることが多い。
それぞれのシリーズで訴えたい哲学はそれぞれ違えども、一貫してセーラームーンが伝えているのは、世界に対する実直で真っ直ぐすぎる肯定である。
たとえば「セーラームーン無印」の最終回ではセーラームーンは、クイーンメタリアの暗黒のエナジーを得て巨大化したクイーンベリルとセーラームーンが対決する。この世の全てを憎む心を植え付けられたクイーンベリルは、世界への憎悪と徹底的な否定をセーラームーンに浴びせかける。
クイーンベリル「美しき未来を夢見るお前もやがては気づくであろう。この世界はすでに醜く汚れきっていることを。」
セーラームーン「いいえ、私、信じてる!」
クイーンベリル「愛か、友情か、人同士の信頼か?」
セーラームーン「信じてる!みんなが守ろうとした、この世界を信じてる!」
クイーンベリル「馬鹿め、この腐り果てた世界に信じられるものなどないわ!」
世界を徹底的に否定するクイーンメタリアとは対照的に、なんの疑いも持たずにまっすぐに世界を信じ、徹底的に世界を肯定するセーラームーン。結局は世界を信じ、肯定するパワーが世界を徹底的に否定し憎悪するパワーを打ち砕くのだった。
・セーラースターズ最終回「この世界が大好き」
さらにセーラームーンシリーズ自体の最終回「セーラースターズ」では、セーラームーンが突如として全裸になり銀河系最強の戦士セーラーギャラクシアと対決したのは一体なぜなのかを徹底考察した。
混沌(カオス)に完全に支配されたセーラーギャラクシアが世界を再び混沌へと導こうと、最強の剣を以ってセーラームーンと対決しようとするのに対して、セーラームーンはいわば何ひとつ武器を持たずに、さらには衣さえまとわぬ”無所有”の者となって、銀河系最強の戦士セーラーギャラクシアに立ち向かってゆく。武器を持たないのにどのようにセーラームーンが銀河系最強の戦士に挑んだのかというと、それは「この世界が大好き」という世界に対する徹底的な肯定と、絶対に諦めずに希望を信じる心、そして徹底的に何ひとつ持たないで相手に対峙するという究極的な無所有の精神だった。
セーラーギャラクシア「戦うことを捨てたお前に、戦士としての誇りを捨てたお前に、何ができるというのだ。お前に残された道はその輝きを私に差し出し、潔く消えることだけだ。」
セーラームーン「諦めないよ、私。だって信じてるもん。大好きなこの世界を、みんなが守ろうとしたこの世界を、そしてあなたの心の中に残っている、希望のカケラを。」
最終的にセーラーギャラクシアの心の奥底にわずかに残っていた希望のカケラに、セーラームーンの輝きが到達し、この世界が大好きという世界への徹底的な肯定として、ふたりの心は共鳴してゆく。
セーラームーン「私、この世界が好き。みんなのいるこの世界が大好き、みんなも、そしてあなたも。」
セーラーギャラクシア「私も好き…私もこの世界が…この世界が大好き」
・肯定は否定よりも困難だが否定よりもはるかに美しい
誰もが知らないような遠い昔にブッダが「この世界は美しい 人生は甘美である」と世界を肯定したことも、最近のセーラームーンがどんな困難があろうとも一貫して徹底的に「この世界を信じてる!」「この世界が大好き」と世界を肯定していることも、”世界への肯定”という心構えが世界中の人々の心を震わせ、感動させ、その教えがぼくたちの未来を導いてゆくという点では変わりがない。
ぼくたちの世界は否定で満たされ、ぼくたちの存在すら根源では否定から生じていることに疑いの余地はないが、それでも否定ばかりしていては心が貧しくなってしまうのではないだろうか。徹底的に否定することは、徹底的に肯定することよりもはるかに簡単だ。徹底的に世界を否定した方が賢そうに見え、思慮深く思え、そして不満を持った人々の共感を集めやすい。さらに世界や人生の悪い点だけを数え、見つけ、粗探しをする方が、いいところを見つけ出したり希望を見出すよりもはるかに手軽で容易だ。
世界や人生の徹底的な否定が仏教の教える通りこの世の真理であろうとも、ぼくたちは諦めずに、世界のいいところや人生の素晴らしい点を、生きるほどに発見すべきではないだろうか。セーラームーンのように世界をあらゆる方角から肯定し愛することがたとえ難しくても、世界や人間の美しい正体を確認してはそれを宝物のように心へと隠し持ち、この世を強く生き抜いて行くべきではないだろうか。
人の悪口や陰口ばかり言って粗探ししているような人物よりも、人のいいところが何かないかと見つけようと努力している人の方が素晴らしいに決まっている。心の中で世界への不満ばかりを垂れ流して顔面の表情を歪め負のオーラを放ちながら生きて死んでゆくよりも、心に世界への肯定という美しい宝石を隠し持ち、真実へと飛翔してゆく姿の方がぼくたちの旅路にはふさわしいに決まっている。ぼくたちに必要なのは、斜に構えた浮世や他人に嘲笑われることを決して恐れず、「世界は、そして人生は美しいのだ」と心から肯定することのできる勇気ではないだろうか。