返されなければ不幸だというのは本当か? 〜ただ与えるという幸福〜

 

いつからだろう、ぼくたちはなにかを与えたならば、なにかを返されて当たり前だと思うようになってしまったのではないだろうか。

返されなければ不幸だというのは本当か?

・労働の風景
・商いの風景
・返されるべきだという呪い
・人間にとって本来の幸福は与えること
・ただ与える
・自作詩「世界が終わりそうな雨の中を」

・労働の風景

たとえばぼくたち人間の大抵の人々は労働をする。労働とは、なにか他人の役に立つことや他人の望むことを与える行為だ。

もしも他人の役に立つことや他人の望むことを、なんの見返りもなくやっている人々がいるのならばそれは大変素晴らしいことだろう。しかし、そのような人々は少ない。言うまでもなく、ぼくたちが労働する最も大きな理由は、お金をもらうためである。逆にお金をもらえないけれどどうぞ労働してくださいと言われて、することができる人がどれほどいるだろうか。

ぼくたちは自分自身の最も若く美しく大切な時間の大半を労働に費やし、その見返りに割りに合っているのかわからない少しのお金をもらい、そのお金で衣食住を補充したり、少しばかりの自分のための趣味や好きなことに費やしたりして粛々と人生を生きていくのだ。

 

 

・商いの風景

労働に限らず、世の中は打算の思いが渦巻いている。これをすればより多くの見返りをもらえるだろうとか、これをすればお返しに大きな得になることが返ってくるだろうということを頭の中で計算しながら、人々は行動を起こしている。しかしそれも仕方のないことなのかもしれない。

学校で学んだように、世の中は「資本主義」で成り立っているのだ。お金をなるべく儲けていって経済の発展を促そうという考え方である。

たとえば本来10円のものを100円で売ったりして、商売は行われている。ちょっとよく考えればこれって人を騙しているのではないかと思われるが、これは商売という正当な行為として社会で認められているらしい。しかし、10円のものを1億円で売ったならば、人を騙した詐欺だと言われるのだから不思議なものである。

いったいどこまでがゆるされた商売で、どこからが詐欺だと名付けられるのだろう。法律で基準が決まっているとでもいうのだろうか。それとも人の感情や感情という曖昧なものが決定づけるのであろうか。いずれにしても不思議なもだなあと前から思う。

商売というものに関しても、見返りを求めるのは当然だ。たとえば買い物をするとき、この魚を差し上げます、何も見返りなど要りませんと慈悲深い心で言ったのでは、商売が成り立たず魚屋さんは倒産してしまうだろう。10円の魚を100円で売ってやろうという根性があるからこそ魚屋さんは成り立っているのだし、それは至極普通に見える商いの光景である。

 

・返されるべきだという呪い

このように人の浮世は、見返りを求めてまた求められて、お互いに恩を返したり返されたり、期待したり期待されたりしながら成り立っているようである。

少し前台湾の高雄のカフェで日本人が書いた「貨幣とは何であるか」という古い本を読んだ際に、原始時代からの人間の贈与文化の成り立ちにも言及しており、それによると古来から人の心には、贈与されたものはきちんとお返しをしないと呪いを受けるという感情があったようだ。見返りを求める心は、原始時代からの人間の心の根幹を成す習わしなのかもしれない。

しかし、この返されて当然であり、返されなければむしろ恨み合い憎み合うような風習が、人の心を荒廃させてしまっている感じがするのはなぜだろう。返されて当然、返されなければゆるさないという雰囲気が、人々の心を貧しくさせてしまっているような気がしてならない。本当に与えたのならばなにかしらを返されなければ、人の心は本来満足いかないようにできているのだろうか。

 

・人間にとって本来の幸福は与えること

ぼくは先日書いた記事の中で、シベリア鉄道において、ロシアの大地に生きる素朴な人々に多くのものを与えられる経験をしたことを書き記した。その中で「与える」という行為の本来の意味に気がついたことに言及した。

「与える」ということは、呪いにかけられた現代の人の世においてはなにか恐ろしいもののように感じられてしまうが、本来その行為は、なにひとつ見返りを求められない、ただ与えっぱなしの慈悲にあふれた愛ある行為だったのだ。

そしてなにも返すものを持たない自分が、生きていることを恥じたり申し訳ないと思う必要は決してない。与えてくれた人々は、ぼくが与えられ笑顔で受け取ったことで、もはや与えられたに等しい思いを受け取ってくれているのだ。そして今度はぼくが彼らに倣い、誰かに「与える」ことを引き継いで行けばよいのだと感じている。

シベリアの人々が「与える」という行為の本来の意味を教えてくれたのだが、受容体をよく働かせれば、与えるという行為が与えられるという行為よりも、はるかに満たされる行為であるということを日常生活でも知ることができる。たとえば最も簡単な例で言えば、電車でおばあさんに席をゆずる行為などは非常に身近な例だと思われる。

これはぼくの実体験だが、ある日おばあさんに席をゆずった。するとおばあさんは笑顔でありがとうと言い、席に座った。ただそれだけのことである、非常に簡素な例だが、ぼくの心はこの日常の何気ない行為に奥深い感情を刻みつけられた。

ニュートラルな視点で合理的に考えれば、ぼくはなにひとつ得しないのだ。自分は座席を失い立たなければならなくなったので、エネルギー消費量も疲労度も増すだろう。別にお返しにお金をもらったりお菓子をもらったりすることを期待しているわけでもまったくない。誰か知り合いに見られているわけでもないし、誰かに賞賛されることもないだろう。

考えてみれば自分に得することなどなにひとつないのだ。けれどぼくは、与えたことに心満たされていた。それはきっと、なにかを返されるよりも、心満たされていたことだろう。それはただ、与えたことを、受け取ってくれたからである。

 

 

・ただ与える

返されることの呪いに縛り付けられるということは、不幸なことかもしれない。返されなければどうにもこうにも人は生きてはいかれないと、誰もが思い込み心さまよっていることだろう。けれどふとふり返り、心の風景を眺め返したならば、過去から訪れる静かな幸福のすべては、なにかを与えられたときや、与えたことを返されたときではなく、与えただけの思い出かもしれない。本当に人が心満たされるのは、ただ与えたときなのかもしれない。時代の曇りを取り払い、人々の迷いをすり抜けて、澄んだ瞳を投げかけよう。

ぼくたちはできるだろうか。ただ与えるということを。時代の風に飲み込まれずに、多くの人に惑わされずに。曇りを取り払われた瞳を、浮世の中で、果たして維持し続けることができるのだろうか。

 

 

・自作詩「世界が終わりそうな雨の中を」

ぼくは何も与えないけれど
ぼくにすべてを与えてください
ぼくは誰も愛さないけれど
すべての人がぼくを愛してください

知らず知らずのうちに
そのように叫び続ける心が
どれだけぼくを傷つけるだろう
この世との色を異らせるだろう

誰の役にも立たなくても
生きていていいと言ってください
生きていてもいい理由がなくても
ここに生きるぼくを抱きしめてください

どうしてそんな風に祈ってしまうの
心から願ってしまうの
苦しくて苦しくて
それでも祈る心は止まらない

破壊されるまで続くのだろうか
氷柱の雨は降り止まない
精神が融解を覚え始め
世界は鏡を見失っていく

与えられない人になって
愛されない人になって
生きられない人になって
この世にはない人になって

ぼくは鏡に閉じ込められる
時の流れの遮断された国
光たちが彷徨い続けている
ぼくはぼくを愛するしかない

さみしいよ
こわいよ
くるしいよ
たすけて

叫んでいるのに伝わらない
ぼくは笑顔をこの世に見せて
身体の裏側で泣きながら
少年が雨の痛みをこらえている

世界が終わりそうな雨の中を
かろうじてこらえている

 

 

 

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