貧しい人は他人に与えられないというのは本当か?

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貧しき人の与えることの美しさよ。

貧しい人は他人に与えられないというのは本当か?

・旅における爪切りの困惑
・エストニアで出会ったパキスタン人のおじちゃん
・パキスタン人のおじちゃんがくれた爪切り
・汗くさいおじちゃんがくれた缶コーヒー
・貧しさという不思議な神聖

・旅における爪切りの困惑

ぼくはロシア・シベリア鉄道+ヨーロッパ周遊で100日間の旅をした。その途中で困ったことは、爪切りを持ってこなかったことだ。爪が伸びてくるとブログを書くためにキーボードを打つだけでもカチカチして気になってしまう。

爪切りくらい宿で貸してもらえるだろうと、まず最初に爪切りを貸してくれと頼んだのは、ロシア北極圏の都市、ムルマンスクだった。ムルマンスクの宿のフロントは、ロシア語オンリーのおばちゃんたちでシフトを回されており、それを見越してGoogle翻訳でロシア語の「爪切り」をあらかじめ出しておいて、その文字をおばちゃんに見せた。

するとなんとおばちゃんは、爪切りはないよ!と言い、これで爪でも切りなさいと大きなハサミを渡された。

え〜〜〜こんなので爪切ったことないよー本当にこんなので爪切れるの?とめちゃくちゃ困ったが、おばちゃんが自信満々にハサミを出して来たので多分おばちゃんもいつも爪をハサミで切っているのかもしれない、大丈夫だやってみようと自分自身を奮い立たせて人生初の爪のハサミ切りに挑戦した。

しかし、慣れないことはやるもんじゃないという教訓をぼくの心に刻ませるほどその爪切りのできは悪く、爪はデコボコでギザギザになり、これなら切る前の方がよかったのでは…と一瞬思ってしまうほどだった。しかし一応爪は短くなったので目的は達成した。

 

 

・エストニアで出会ったパキスタン人のおじちゃん

次に爪切りで困ったのはバルト三国のエストニアだった。安宿のフロントに聞いても爪切りはないと言われまたしても困惑していたところ、仲良しになったパキスタン人のおじちゃんが爪切りを持っているというのでありがたく貸してもらうことにした。

パキスタン人のおじちゃんは出稼ぎでEU圏に来ているらしく、パキスタンに子供と妻を残してひとりエストニアの地で働いているようだった。おじちゃんはその安宿を住処として働いているらしい。おじちゃんは日本にも出稼ぎに来ていたことがあるらしく、日本語が堪能だったので驚いた。ぼくはエストニアにいる間そのおじちゃんとよく喋り、語り合い、友情を深め合った。

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・パキスタン人のおじちゃんがくれた爪切り

ぼくがエストニアを去る時、おじちゃんはとても名残惜しく感じてくれ、旅で困るだろうと爪切りをぼくにくれた。おじちゃんだって爪切りがないと困るだろうと言ったが、大丈夫だから持って行って、これはあなたに必要だと言ってくれた。

ぼくにはその出来事がとても心に沁み、記憶に残った。おじちゃんの経済状況の詳細は知らないが、安宿に住んでいるし、頑張って出稼ぎしているし、少なくとも日本人よりも裕福ということはなかっただろう。ぼくの方がきっとお金を持っているのに、ぼくが旅で困るだろうという思いやりの心を持ってぼくに爪切りを与えてくれたことが、とても嬉しかったのだ。

これがぼくよりもお金持ちの人に爪切りを与えられたのならば、まだ話はわかる。おお貧しくて困っているだろう爪切りを買うのも大変だろうという哀れみの心で、爪切りを与えられるのならば、なんとなくすんなりありがとうと受け取れるような気もする。しかし今回はその逆の事例が起こっていることで、なんだか心がむやみやたらと揺さぶられたのだ。

 

 

・汗くさいおじちゃんがくれた缶コーヒー

ぼくは遠い昔に一度だけ荷物移動のバイトをしたときのことを思い出した。荷物をせっせと移動させるという単純なバイトだったのだが、その時に一緒に荷物を運んでいた人に、すごく汗くさい50歳くらいのおじちゃんがいた。おじちゃんは荷物を運びながらぼくと喋ってくれ、もうすぐ大学生になることや沖縄に行くことを話して聞かせた。

荷物を箱に終わると汗くさいおじちゃんは、よく頑張ったなと言ってぼくに缶コーヒーをくれたのだった。そのときもなぜかぼくはやたらと感動した。あのおじちゃんだってきっとお金持ちではないのだ。勝手に想像してものすごく失礼だが、絶対お金持ちのおじちゃんではなかったと思う。それなのに缶コーヒーをくれるなんてなんて思いやりの深い人だろう、汗くさい人だなぁなんて思っていて本当にごめんという心境だった。

お金を持っていなさそうな人に与えられることって、どうして感動するのだろう。

 

 

・貧しさという不思議な神聖

ぼくは想像の中で、お金を持っていない人というのは他人に与えないというイメージを持っていた。お金を持っていないのだから、所有するものだって少なく、他人に与えるほどの余裕などなく、他人に与える機会が少ないというのは自然な成り行きのように感じる。

しかし現実には、貧しい方が、所有の少ない方が、思いやりを持って人々に与えられる人が多い気がするのはどうしてだろう。利益など計算せず、損得勘定などなく、ただ純粋に思いやりと慈しみの心で、与えてくれる人々が多いのはなぜなのだろう。

逆に裕福であり余裕のある人の方が、財布の紐をかたくしてお金や富の流出を防ごうと必死になっているきらいがあるし、与えるにしてもいつも見返りを脳裏で計算してから与えようとする人が多いような気配がある。

ぼくたちは何も持たずにこの世へとたどり着き、何も持たずに帰っていく。どうせ失ってしまうものにしがみついて一体何になるのだろう。人間が幸福になるためには、与えることしかないと説いたトルストイの人生論を思い出す。ぼくたちは思いやり、与え、愛するしか道はないのだ。そのような幸福への道を直感的に知らされる賢き人々は、実は素朴で貧しい人々ではないだろうか。

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