88記事…死ぬ……!!!!!
大量の宿題をあっという間に片付ける方法!四国お遍路88の寺院をそれぞれ88記事にまとめるのが大変だというのは本当か?
・四国お遍路の巡礼の旅をはじめよう
・ぼくに課せられた88記事もの宿題
・88もの宿題は果てしなく目の前に積み上がる
・大量の宿題をあっという間に片付ける方法
・四国お遍路の巡礼の旅をはじめよう
ぼくは最近四国お遍路車中泊の旅をした。2020年は閏年であり、第1番目から順に第88番目まで回るよりも、第88番目から第1番目を目指して巡礼すると、どこかで弘法大師に巡り会えるのでご利益が3倍になるという情報を高野山で聞いたので、そのアドバイスに従った。この回り方を所謂”逆打ち”という。
逆に回ればどこからスタートしてもいいということだったので、ぼくは第11番からスタートして、第12番のゴールを目指した。途中からは台湾人の友達も加わり、台湾人と仲良く2人で四国一周車中泊の旅をした。
台湾人の友達がお遍路に興味を持てなかったらどうしようとかなり不安だったが、意外と彼は日本のお寺に興味津々だったようで、日本のお寺がこんなに美しいとは知らなかったと、お遍路の多種多様な仏教寺院を楽しんでくれていたので安心した。
・ぼくに課せられた88記事もの宿題
さて問題だったのが、旅ブログ「ミズイロノタビ」をどう書こうかということだった。日にもよるが1日に結構な数のお寺を回るので、1日を1記事にすれば楽だが、それだとそれぞれのお寺の魅力が伝わりにくいだろう。お遍路のお寺はそれぞれによさや趣があり、思案した挙句に、大変そうだが1寺1記事ずつ書くことを決意し、お遍路の記事を88つ書き上げることを誓った。
誓った…誓ったのはいいんだが、88記事って…思っていたより多い。つらい。泣きそう。でも自分で決めたんだからやり遂げなければ…!!!されど書いても書いても終わらない。先が見えない。88記事もの宿題を課した過去の自分を恨んだが、自分に文句を言っても仕方ないので、書いて、書いて、書き続けた。
いきなり88記事の宿題が出された小学生のようばぼくの気持ちを、みなさんわかっていただけるだろうか。しかもその上この「みずいろてすと」のブログさえ毎日更新しているのだから自分は偉いと思う(自画自賛)!
・88もの宿題は果てしなく目の前に積み上がる
ぼくはどれくらいお遍路記事を書くべきなのかを知るため、最初に題名だけでもあらかじめ書いておくことにした。具体的には”第1番「竺和山 一乗院 霊山寺」”や”第2番「日照山 無量寿院 極楽寺」”などと題名だけを書き込み、下書きに溜めていった。お遍路のお寺は大抵「〇〇山 △△院 □□寺」という風な構成になっており、これを88個打ち込むだけでも結構な作業量だった。
そのようにしてできた88のお遍路寺院の題名だけ書かれた下書き…その並びを見るだけで気が遠くなるほどの量だった。こんなにたくさん書けるわけない…!!!と泣きそうになりながらもパソコンに向かった。
・大量の宿題をあっという間に片付ける方法
まるで夏休みのための大量の宿題を先生に出された子供のような心境になって絶望した。しかし、ぼくは「あること」を意識するだけで、2週間で88記事を書き上げてしまった。一体何を意識したのだろうか。
それは、「ただ書く」ということだ。今の時点でどれくらい書いたのだろう、後どれくらい書くべき記事は残っているのだろう。そんな余計なことを考えずに、集中して、ただ、書く!特に題名だけの下書きを眺めて、後何記事書かなければならないのだろうと考えるのは特に要注意だ。こんなに必死に書いているのにまだ80記事もあるのか、こんなに頑張ったのにまだ70記事もあるのかと、余計な絶望感に苛まれていては書く気も一気に失せてしまうことだろう。
後何記事あろうが、それがどんなに多かろうが少なかろうが、今、自分が、書かなければならないという事実は変わらないのだから、ただ、書くだけだ。過去を振り返ることなく、未来を思い煩うことなく、ただ、無心に、我武者羅に、集中して、書くだけだ。そう、行動こそがすべてなのだ。余計な邪念を祓った先の行動だけが、ぼくたちに残された大量の宿題を片付けてくれる道しるべだ。
お遍路の巡礼だって同じことが言える。後いくつの寺を回らなければならないと数えているようなときには、巡礼は長く険しいものに感じられるが、目の前にある寺院や巡礼のことだけに焦点を当てて今の瞬間だけを燃え盛るように生きていれば、自然と巡礼は終了しており、さらには次の段階にまで魂が進んでいるということもしばしばである。
過去も未来も気にせずに「今」を生き抜くことは、仏教でもキリスト教でも言われている、重要な生きる姿勢のひとつである。見上げれば果てしなく高く途方もない距離に見えた山の頂上も、ただ足元を見つめてひたすらに登り続けていれば、気づかないうちに頂上へとたどり着いていることもあるだろう。今を生きるということは大量の宿題だけに限らず、いかなる時もぼくたちにふさわしい生き方を教えてくれる羅針盤となり得る。