過去を捨て去るから今を手に入れられるというのは本当か? 〜ぼくたちの宇宙〜

 

今を生きるぼくたちの中には、果てしない過去が眠っている。

過去を捨て去るから今を手に入れられるというのは本当か? 〜ぼくたちの宇宙〜

・英語という言語における現在完了の哲学
・今、ここにぼくらが生きているのはあらゆる過去を蓄えるからこそ
・谷山浩子「電報配達人がやってくる」が織り成す水族の正体
・今、ここにぼくらが生きているという宇宙

・英語という言語における現在完了の哲学

日本人にわかりにくい英語の文法に、日本語にはない「現在完了」というものがある。現在完了はhave+過去分詞で書き表される英語の文法であり、初めて現在完了を習った中学生のぼくも、日本語にはないその文法の理解に苦しんだ。ただ覚えればいいといえばそれまでなのだが、どうせならその感触や感覚をつかんでおきたいと願ったのだ。

現在完了には3つに用法があるらしい。すなわち、継続、経験、完了の用法である。いずれもただhave+過去分詞で表されるものであり、どの用法かはその周囲に散りばめられた単語や雰囲気で判断することとなる。ちなみにこの経験用法は外国を旅しててもよく使えるなと思う用法だ。外国人にたいしてHave you been to Japan?などのように、日本に来たことある?と会話中で尋ねることは日常茶飯事だからだ。この経験用法は覚えておいて決して損はしないだろうと思う。

しかしこの3つの用法に共通する現在完了の概念とはなんだろうと、中学生のぼくは注意深く言語観察を行い、あってるか間違っているのかわからないような結論にたどり着いた。それはすなわち、現在完了とは「あくまで現在という点のことを語っているのだが、それは今へと連なる一定の過去というものをひっくるめた時制としての現在だ」ということだった。

現在完了では日本語に訳してしまえば過去のことを語っているように聞こえてしまうのだが。yesterdayや3 days agoという過去を示す副詞とは一緒に使ってはならないと教えられる。それは現在完了が、過去のことを語っているわけではなく、あくまでも現在に関してのことを語っているからだと感じとったのだ。しかしその現在とは、過去をひっくるめて過去を十分に湛えて膨らんだ現在という「今」の正体である。

 

 

・今、ここにぼくらが生きているのはあらゆる過去を蓄えるからこそ

中学生の頃のこの英語における言語考察は、予期せずして人生における時間哲学へと結びついていった。ぼくたちは小学生、中学生、高校生、大学生、社会人と、だんだんとその身分を変化させていく。ぼくの場合は社会人から旅人へとその身分をさらに変化させて今に至る。

それでは旅人になった「今」のぼくは、社会人としてのぼくを捨て去ったからこそ旅人として存在できているのだろうか。同様に、社会人のぼくは大学生のぼくを捨て去ったから、大学生のぼくは高校生のぼくを捨て去ったから、高校生のぼくは中学生のぼくを捨て去ったから、中学生のぼくは小学生のぼくを捨て去ったからこそ存在できていたのだろうか。

いや、過去のあらゆる自分自身を捨て去ってしまっては、自分は今、ここに、存在することは不可能だろう。今、ここに立っているぼくという存在は、あらゆる過去という時制の土台があってこそ初めて、その上に立って成り立っているものだ。

旅人になった、今、ここに立っているぼくには、過去における社会人の自分が眠っている。それだけではない。今、中国の果ての天空のチベット世界で立ち尽くしているぼくは、社会人の自分、大学生の自分、高校生の自分、中学生の自分、小学生の自分、幼稚園の自分、赤ちゃんの自分をすべて継続的にひっくるめて内包しながらも存在しているのだ。そのどれかひとつの過去では抜け落ちてしまえば、ぼくはこの世界から消滅してしまうだろう。

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今、ここにいるぼくを支えているのは、今まで通り過ぎて来たあらゆる過去たちなのだ。そしてその哲学は、英語の文法における「現在完了」でぼくが中学生の頃に導き出した答えと、まったく同様であると感じた。人生とは、生命の営みとは、現在完了のように進んでいくのだ。

 

 

・谷山浩子「電報配達人がやってくる」が織り成す水族の正体

このような時間的哲学を見事に表現した物語に、偶然出会ったことがある。谷山浩子の「電報配達人がやってくる」という不思議な夢の中の物語だ。

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物語の中で主人公のワイチは、電報配達人に導かれて変な水族館を訪れる。そこにあったのは、硝子箱の水中摩天楼。その変な水族館には、青白いランプを灯した四角い硝子の箱が海の底にいくつもいくつも積み上げてあった。大きな水槽、小さな水槽、立方体、直方体。驚いたことに水槽の中にいるのは魚ではなかった。壊れかかった椅子や机、鉛筆自動車、その他大きさも種類のまちまちの日用品の類、そしてそういうものに混じって人間がいる。ひとつの水槽にひとつずつ、身動きもせずに目を閉じて静かにうずくまっている。

ワイチ「あれれ、おかしいな、どうもこの人たちに見覚えがあるぞ。人間だけじゃない、机にも椅子にも、ほかの何もかもに見覚えがあるような気がする。とっても微かな、さわれば消えてしまいそうな微かな記憶。多分ずっとずっと昔の…ああだめだ、どうしても思い出せない!」

水族1「やあ、元気かね。ここだよ、君の後ろの水槽の中」

ワイチ「ああ、驚いた!口を聞けるんですか?」

水族1「当然さ。君と同じ人間だからな。まあ同じと言っても、まるで同じというわけじゃない。君は単なる人間だが、私たちは少し違うのだ」

ワイチ「単なる人間じゃないとしたら、なんなんです?」

水族1「我々は、水族じゃ。失われた思い出の水族だ」

水族2「人間が誰かの記憶の底に沈んで、すっかり忘れられてしまった時、初めて水族になれるのです。わたくしのことも、あなたはお忘れでしょうね」

ワイチ「どこかでお会いしましたか?」

水族2「この水族館に入れられたものは、忘れられる定めなのです。」

ワイチ「名前を!名前を教えてくれたら思い出すかもしれない!」

水族2「無駄です。水族は思い出されることがないから水族なのです。顔を見ても名前を聞いても、たとえどんな話をしてもあなたは私を思い出すことはできません。」

ワイチ「教えてください!いつ頃ですか?」

水族2「それを申し上げても、あなたにはわかりません。」

ワイチ「そんなぁ。」

水族1「そもそも水族とは何か。君は知っているかね?」

ワイチ「いいえ。なんなんですか?」

水族1「君は、なぜ自分が自分なんだろうと考えたことはないかね?人間は誰でも、その人が忘れてしまったものでできているんだ。水族はいわば、人間の存在の材料なんだ。

ワイチ「存在の材料??」

水族3「そうです。人間が自分というものに執着するのは、海の底にすっかり忘れてしまった水族館を持っているからなのです。

水族2「ある日の黄昏時、わけもなく寂しくなったり、憂鬱な気分になることがあったら、それは思い出の水族がほんのひと時目を覚ましたから。」

水族3「初めて会った人に妙な懐かしさを覚えたり、自分の分身のように感じることがあれば、それはお互いの水族がどこかで出会っているから。」

水族1「思い出せない思い出が、君の人生を目に見えない力で支配しているのじゃ。」

水族3「水族になってしまったものは、永遠に思い出されることがないのです。」

 

 

・今、ここにぼくらが生きているという宇宙

今、ここで生きているぼくたちの中には、これまでのあらゆる過去が眠っている。だからこそ、ぼくたちは今、ここで生きることができる。ぼくは赤ちゃんのぼくも、小学生のぼくも、高校生のぼくも、どこにも捨て去ることをせずに現在完了のようになみなみと蓄えながら、過去で満たされた今という豊かな瞬間を生きている。

そしてそれは、赤ちゃんよりも前の時代へと超越することも可能だ。赤ちゃんのぼく、胎児のぼく、精子や卵、それよりも前の魂、人間へとたどり着く前の永遠の進化の道、果てしない遺伝子たちの軌跡…。ぼくたちが今という瞬間を突き詰めようとすればするほど、矛盾するようにそれはとめどない宇宙的な広がりを見せ、やがては全世界の、全時代を覆い隠すことになるだろう。

今、ここに存在しているということは、全世界、全時代を内包しているということに他ならない。何もかもを含むこと、森羅万象・万物を蓄えること、宇宙を宿すこと。今、ここに生きているということは、ぼくという狭小な生命に留まらない。すべてはすべてと連なり、そしてすべてはすべてと関わり合っていく。

 

 

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