お金を使うとストレス解消になるというのは何故なのか? &貯金することが素晴らしいことだというのは本当か?

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買い物は最も簡単なストレス解消法だ。

お金を使うとストレス解消になるというのは何故なのか? &貯金することが素晴らしいことだというのは本当か?

・お金を使うとストレス解消になるというのは本当か?
・人の心は獲得よりも喪失に敏感になる
・「買い物」における獲得と喪失の2つの性質
・お金は目的ではなく、媒介であり手段
・貯金することが素晴らしいことだというのは本当か?
・新渡戸稲造「武士道」における金銭感覚
・「濁流」
・日本人古来の水信仰と経済の激流への思い

・お金を使うとストレス解消になるというのは本当か?

ぼくたちはストレスが溜まった時に、何か買い物をするとストレスが解消されスッキリするという経験をよくする。自分の感性に合う好きな服や音楽や雑誌を買った時にストレスが解消されるのはもちろんのこと、特にものすごく好きというわけでもない100円のお菓子をコンビニで買っただけでもかなり心は満たされる。

逆に長い間買い物をしないで経済活動に参加しないで貯金ばかりしていると、ストレスが溜まってなんとなくイライラしてしまうということがある。しかしよくよく考えればお金を払えば日々のストレスがすっかり解消され、お金を使わないでお金を貯めているだけでなんとなくストレスが溜まってしまうのはなんだか不思議なことだ。普通、逆ではないだろうか。

 

 

・人の心は獲得よりも喪失に敏感になる

心理学的に人間は獲得よりも喪失に敏感な心を持っていると言われる。これは自分に当てはめてみればすぐにわかるが、1000円を手に入れたときの喜びよりも、1000円を損したときの悲しみや喪失感の方がはるかに大きく感じてしまうだろう。人間は喪失に敏感であり、それゆえに無駄に喪失しないようにしないように日々繊細に心がけてしまう習性を持った生き物である。もしかしたら進化前の動物時代に、せっかく捉えた獲物を喪失して食べ物がなくなり自らの命が途絶えてしまわないように細心の注意を払うように進化したのかもしれない。

それなのにぼくたちはお金を喪失するための買い物という行動によって、大いに喪失感や悲しみを得るわけではなく、むしろ心の高揚感とストレス解消が促されるのは不思議なことだ。お金といえば自分で労働して、自らの若くて健康でなんでもできる若い時代をわざわざそんなにしたくもない労働行為に費やしてやっと手に入れる、いわば自らの命の化身ともいえる大切な物質である。そんな重要なお金を喪失するのに喜びに満たされるとは、一体どうしてなのだろうか。

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・「買い物」における獲得と喪失の2つの性質

「買い物」という行動は、実際には喪失と獲得の2つを伴っている。すなわち、持っている大切なお金を喪失するという事象と、その代わりとして物質もしくはサービスを受ける獲得という事象のふたつが同時に引き起こされる行動が「買い物」である。

ぼくたちは自分の大切なお金を喪失するという悲しみよりも、それと同じだけの価値があるとされる大好きな物質や嬉しいサービスを獲得できる幸福感の方がはるかに大きいから、買い物という行動がストレス解消につながるのだろうか。

 

・お金は目的ではなく、媒介であり手段

よくよく考えれみればぼくたちはお金そのものの物質が欲しいわけではない。一見すると人間はお金という紙切れをたくさん蓄えるために、一生の最も若くて最も健やかで最も輝かしい時代を犠牲にしているように見えるが、実際はお金という物質が持つ価値に魅了されてお金を手に入れようと必死になっているのだ。

お金という物質が持つ価値を使えばなんでもできる。自分の感性に合った好きなブランドの服も買えるし、心から尊敬できるアーティストのコンサートにも行けるし、旅に出ようと思えばどこへだって飛んでいくことができる。また思いもよらぬ病気にかかった時には病院を受診して苦しみを取り除いたり大抵の病気は治してくれる。老後で体が動かなくなりひとりで生きられなくなったときでも介護施設に入所して問題なく余生を送ることもできる。お金があればだいたいなんでもできる。ぼくたちはどのような物質でも、どのようなサービスでも受けられ、すなわちなんでもできるように、なんでもできる可能性をより大きく広げるために、そしてその可能性によって心が安心するために、一生をかけて必死にお金をいう物質を貯め込むのだ。

とすれば、お金は人生の目的ではなく物質やサービスへとつながる媒介であり、手段であり、お金を喪失して好きな物質やサービスを獲得することはむしろ「お金」本来の役割にかなったものであり、それは喪失ではなくお金がお金本来の正体を取り戻す姿であり、さらに自らの目的とした物質やサービスを享受できているという人間本来の目的にようやく到達できるのだから、人間はスッキリとストレス解消を感じても当然だと言えるのかもしれない。人はパンツを頭にかぶっている人を見るとなんだか間違ったその使用法に違和感を抱いたりイライラしてしまうが、パンツをちゃんと履いて本来の使用法の通りに使われているのを見るとなんだかスッキリするという、そんな感じだろうか。

一方でコンビニで税金を支払ったり駐車場代を支払ったとしても全然ストレス解消にならないどころかストレスが溜まってしまうのは、自分がそれだけの価値があるものを目に見えて与えられていないと感じるからかもしれない。

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・貯金することが素晴らしいことだというのは本当か?

人々は貯金することは素晴らしいことだと見なし、貯金できている人は立派な人であり、女性も結婚相手を決める時に貯金がいくらあるのだろうと男性の貯金額を気にしたりする。しかしそのような常識的な考えとは裏腹に、心の奥底で、実はお金が貯まり停滞し動いていないという状態に、お金がお金本来の姿を見失った風景にイライラしてしまうのではないだろうか。それがお金を使わないで貯めてばかりいるとイライラしてしまうという人の心の正体ではないだろうか。

ぼくも新型コロナウイルスの自粛でほとんど何も買わずに健在活動に参加しない日々を送ってきたが、なんとなく心がモヤモヤしたりイライラするような感じがしていた。そんなときふとコンビニへ行き、1000円以下のとりとめもないお菓子を買っただけだったが、なんだか心がスッキリしたような気がした。お金を流すことが人の心のこんなにも影響を与えるなんて面白いものだと自分の心を観察していて感じた。

ぼくの感性では、お金は自分の最も若くてなんでもできる素晴らしい時間を労働に費やして得た大切な宝物であると同時に、なんとなく”穢れ”であるような気もしていた。だから世界一周の旅をするためにお金を貯金してはいたが、貯金が貯まって嬉しいと同時に穢れが蓄積していって魂が穢されてくような、矛盾したような変な感情を抱いていた。貯金してお金持ちになって世界一周の旅に出るんだという幸福感と、本当はお金なんて全て喪失して貧しくなってその上でどのように生きられるのかそんな人生を見てみたいという思いが交錯し引き裂かれるような感覚があった。

しかし周囲を見渡しても貯金することが大切だとか誇りに思っているような種類の人間ばかりで、ぼくの思いを共有できそうな人はいない。そんな時、新渡戸稲造の「武士道」の本を読んで、武士道でもお金は汚れだと認識されていたことを知り納得がいった。ぼくのこのお金に対する不思議な穢れの感覚は、日本の古くからの精神・武士道からの名残だったのだ!武士道には次のように記されていた。

 

 

・新渡戸稲造「武士道」における金銭感覚

”さむらいは金銭そのものを嫌い、儲けることや貯めることを軽蔑する。さむらいにとって金銭は不浄なものだった。堕落した世の中を表現する決まり文句も「文民は金銭を愛し、武士は命を惜しむ」というものであった。金銭や命を出し惜しめば非難され、気前よく差し出せば賞賛された。よく言われる教訓にも「何より金銭にとらわれてはならない。富めば知恵が出なくなる」というのがあるほどだ。したがってさむらいの子供は、経済とは全く無縁のままで育てられた。経済のことを口にするのははしたないこととされ、貨幣の価値を知らないことはむしろ育ちがいい証拠だとされた。

数の知識は、軍勢を集めたり、恩賞や知行の分配をするのに不可欠ではあったが、金勘定は身分の低い者の手に委ねられた。多くの藩において、財政は下級武士や僧侶が担当した。道理をわきまえた武士ならば、金がなければ軍資金すら賄えないことをよく知っていたが、それでも金銭を大事にするのを美德だとするまでには至らなかった。

武士道が節約を旨としていたのは事実であるが、それは経済的な理由からではなく、節度ある生活を送るためであった。贅沢は人間の最大の敵だと考えられ、さむらいは極度に質素な生活を送ることが求められた。そのため多くの藩では贅沢を禁止する法律が出された。

歴史書を読むと、古代ローマでは、税金の取り立てなど、金銭を扱う役人が騎士に抜擢されたりしている。ローマ帝国が財務担当者の役割や、金銭そのものの重要性を大いに評価していたことがわかる。そのことが、ローマ人が贅沢で強欲だったということと大いに関係しているであろうことは想像がつく。武士道ではそうではなかった。財務的な知識は低く評価され、道徳的、知的な素質より下に見られていた。

したがって武士道は、金銭や金銭欲を努めて無視していたため、金を原因とする様々な害毒に犯されることがなかった。これが我が国の役人が長いこと腐敗から逃れられた大きな理由である。”

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・「濁流」

極めて清らかな水でさえ
ひとところに留まっていては穢れゆく
ぼくたちが神性を感じるのは
停滞する水ではなく激流だ

あらゆる水の姿を押し流せ
今という一瞬すらなかったかのように
あらゆる過去の夢を砕き散れ
止まろうとする臆病者を叩き出せ

濁りゆく人の心の風景は
激流を避けて安らかな都に住む証
平らな地平を眺めて生きれば
起伏のない一生が平和を告げる

ぼくたちは激流を呼び覚まそう
全てが濁りに侵されてしまうその前に
新しい水が濁世を洗い流すだろう
あらゆる時代に荒魂は注がれる

激流に飲み込まれた欠片たちが
やがて海へ還る頃に気づくだろう
ぼくたちという現象はあてもなく
されどひとつへ結晶することに

 

 

・日本人古来の水信仰と経済の激流への思い

日本の古代宗教では水を神様として祀っていたようだ。しかし水と言っても静止して止まっているような種類の水ではなく、流れている川とか滝のような水を信仰していたようだ。そしてそのような感性は未だに日本人の根底にある。立派な滝や森の奥に流れる清らかな水のあたりに、祠が建てられ神様として祀られている風景は古代から取り残されたような日本の祈りの源流だ。

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激流

ぼくはお金を使う時、そこに経済の”流れ”や”激流”のようなものを感じた。お金の”激流”を感じる時、そこに古代から受け継がれてきた日本人の”流れ”を信仰する心を自分の中に見たような気がした。

 

 

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