医者でも旅するように働くことができました。
医者が旅するように働くことが不可能であるというのは本当か?
・気づいたら医者になってた
・ふたつの宿命
・研修医として旅するように沖縄の島々で生きた日々
・琉球諸島の南下の大移動
・自作詩「宮古の島へおいでなさい」
・気づいたら医者になってた
旅するように生きなければならないと信じる心が、いつしか知らず知らずのうちに胸の中に燃えていた。それはまさに運命的に自分自身に付随するように感じられたが、それと同時にもっと確実な自分自身に降り注ぐ運命があった。それは医師になるということである。
一体なぜ自分が医師になっているのかわからない。入学の面接や、就職の面接や、普段の会話の中でもそのような質問に出会うことがあり、その時はなんとなく合理的な回答で答えていたが、実のところ自分自身でも不明なのだ。
「気づいたらなっていた」という言葉が最もふさわしいのではないかと思うほどに、自然と医師になっていた。ものすごくなるのだという意気込みもなく、絶対になりたいんだという欲望もなく、川の水が流れるように、大気に風が生まれるように、まさにそのようにあくまでも自然に医師になっていたということは、運命的であるという以外に表現する言葉が見つからないと思うほどである。
自分自身のことすらわからないだなんて大丈夫かと思われるかもしれないが、実際のところ自分のことなんてわからないことであふれているのではないだろうか。いや、むしろわからないことばかりだと言うことすらできるかもしれない。
なぜあの人を好きになるのか。どんな語彙力をもって言葉で説明してみても説明しきれる人はいないだろう。なぜ男は女を愛するのか。究極的には子孫を残すためだと帰納的に説明されるが、子孫を残さなくても愛し合う人々もおり、その説明では不完全で曖昧である。なぜ今涙を流しているのか、説明がつかないのに涙が流れてくることもある。どうせ死んでしまうのになぜ必死で生きているのか。人生というのは謎だらけであり、自分自身の行動や性質ですら説明できない事項であふれている。
人生で自分自身について唯一知ることができることがあるとするならば、それは「人間は何もわからないし、何も知ることができない」ということだろう。
それゆえに、自分の人生の運命について、例えば自分が医師になった理由について、まるで他力すらないように言葉ですらすらと説明するような人々もいるけれども、それはただ単に自分ではそう思い込んでいるだけで、実際には自力も他力も混ざり合った不思議な運命的な力に導かれて、医師になったと言うしかないのではないだろうか。
逆にすべて自力の論理通りに医師になっていると言う人がいるならば、それは自分の真理を追求していない可能性がある。どのような物事も、それはなぜか、それはなぜかと突き詰めていくと、結局は「何もわからない」と言う次元に行き着くものだ。
・ふたつの宿命
宿命的に医師になってしまったことと、運命的に旅する炎が燃えていること。この2つの定めがうまく重なり合うような次元がないかということを模索し始めていた。旅するように生きることと、医師として生きることは、両立させることができるのだろうか。
一見そんな事はかなり困難だし無理なんじゃないかと思い込まされる。医師というひとつの病院に留まって、激務をこなすべきであろう職業にとって、国々を渡り歩きながら旅するように生きるなんてことは、夢のまた夢のようにも思われる。しかし、医師として働き始める「初期研修医」と呼ばれる2年間で、意外とそれは簡単に実現することができた。
ここでは医師のぼくが初期研修医の2年間で、どのように旅するように医師として働きながら生き抜いてきたかをご紹介しようと思う。ぼくの中で初期研修の時期は、明らかに壮大に旅するように生きた季節だった。それでいて、働くことを決しておろそかにしていたわけではない。きちんと医師として働きながら、旅する実感を獲得することが、ぼくには可能だった。
・研修医として旅するように沖縄の島々で生きた日々
まずぼくは沖縄の国立の大学病院で2年間の初期研修を行うことにした。理由は母校であったということと、大学病院からなら、多くの提携病院に期間ごとに移動することが可能だったからである。たとえば大学病院である一定期間をきちんと研修すれば、あとは外の市中病院で働くことが可能である。
ぼくはこの制度を利用して、4ヶ月間を離島の宮古島の病院で過ごし、その後は地域医療の研修で日本最西端の与那国島で1ヶ月研修することができた。この期間はまさに医師として旅しながら生活しているといった感じで、充実した研修を積みながらも旅するように肉体を移動させて生き抜くことができた。
宮古島の病院は研修医宿舎もきちんと設置されており、無料で泊まることができた。研修中は宮古島に住み地域に根ざしながら生きることとなるので、またとない尊い経験をすることができた。病院の仕事は研修医のイメージ通りに激務だったが、それでも働く以外の時間は宮古島を回って島の生活を満期することができる。
ぼくが思うのは、旅することと、住むということはやはり異なるということだ。そしてその土地の人々や風土の真髄に本当に触れたいならば、もはや住むしかないという思いがする。住むことを実行することで、旅して通り過ぎるだけでは深めることができない尊い部分を深め、自分の中へと消化し、それを耕しながら肉体の腕により創造へと導き出すことが可能となる。ぼくは宮古島の写真を撮り、絵を描き、詩を書いた。
そして初期研修で4ヶ月間宮古島に滞在し深めたことをきっかけに、後期研修でも宮古島へと移住し1年間の時を過ごすことができた。まるで人生を通して旅しているようで、まさに自分の内部の炎と人生が呼応し、共鳴していることを確かに感じた。
・琉球諸島の南下の大移動
その後の与那国島の地域研修も、宮古島に負けず劣らずの貴重な経験となった。出会う人出会う人が興味深く、まるで映画の中のストーリーのような感覚すら味わった。それについては機会があればまた書こうと思う。
与那国島では民宿に1ヶ月お世話になったのだが、地域研修というのは交通費も、宿泊費も一定額なら職場から出してくれるという掟になっていたので、ぼくはほぼ無料で与那国島に滞在し、診療所での働きを体験することができた。まさに沖縄で働くことを決めたから実現できた旅する労働方法と言えるだろう。
この濃厚な与那国島の1ヶ月を通り過ぎると、ぼくは夏休みをとり台湾を訪れた。そして以前から気になっている台南を人生で訪れてひどく感動していた。この期間は、沖縄本島から、宮古島へ移住し、そして与那国島へ移住し、そして台湾へと、だんだんと南下しながら旅するように医師としての人生を歩んでいた。まさに医師という運命と、旅する炎という運命とを、見事に共鳴させ呼応させながら、生きている実感を噛み締めていた。
もしかしたらこの期間を味わうために、わざわざ沖縄の大学へと進学したのではないかと思わせられたほどだった。なぜかこの肉体は、知らず知らずのうちに訪れたこともない南の島の土を踏んでいた。そしてそこで生きていくことを誓った。
もしかしたら遺伝子が、ぼくをここへと導いたのかもしれないと思わされた。昔むかしぼくのご先祖様は、この周囲の島々から日本へと移住したのかもしれなかった。自らの根源をさがし求めるようにして、清らかで澄んだ直感を頼りに、ここまで渡ってきたのかもしれなかった。
・自作詩「宮古の島へおいでなさい」
心も尽きるほどに
この世で悲しみ抜いた者たちよ
世界が透き通るほどに
この世で苦しみ抜いた者たちよ
宮古の海においでなさい
あの世とこの世が同じになる海
宮古の風においでなさい
あらゆる境いがとけほどける国
どうしてそれほどまでに
傷つかなければならないのでしょう
どうしてそれほどまでに
何もかも失うことをゆるしたのでしょう
弘誓の舟も立ち現れよう
空と海の鏡面に立ち向かい
わたしの鏡も砕け散ろう
限りない光を受け取るために
どうしてそれほどまでに
受け止め続けてこられただろう
あらゆる水を受け止めた器が
この世とあの世に降り注ぐ夜だ
ぼくも持っている沖縄の離島が全部載っている完璧で素敵な写真集!