すべてを失えば人生が終わりというのは本当か? 〜純粋で宿命的な魂と自分自身からの教え〜

 

ゼロからでも、人はやっていける。

すべてを失えば人生が終わりというのは本当か?

・10代の沖縄移住はまさにゼロからのスタート
・純粋で宿命的な魂
・ゼロからでも人はやっていける

・10代の沖縄移住はまさにゼロからのスタート

前回の続きとして、ぼくは大学へ進学するために沖縄へ移住した。沖縄を選んだ理由は、言葉でも説明のつかないような”直感”とでも言えるものかもしれない。ただ、周囲の誰もが近くの関西の大学へ行くのを望んでいたのに対しぼくははるか遠くへ移動したいという炎を隠し持っていたし、自分の中の遺伝子が南の温暖な気候を自分の肉体にふさわしいものとして見なしていたのは事実だろう。

”南”という言葉に不思議と惹かれてしまうぼくは、その直感に従った。まさに直感に翻弄されている人生だと言うこともできるだろう。直感の光の中では、いかなるおそれさえ排除し退けてしまう。ぼくは行ったことも見たこともないような南の島、沖縄へと直感に導かれ移住したのだった。

しかし、本当に行ったことが一度もないので、どのような場所かもまったくわからない。人々の話し方も全然違うし、民俗学的な知識もなければ歴史さえあまり知らない、もっと言えばスーパーメーケットがどこにあるのかさえわからないような有り様である。そして知り合いも友人も家族も誰ひとりいない。

まるで今まで生きてきた人生をいったん完全に0に戻してから、また新しく人生をスタートしなければならないような状況である。今までの人生がうまくいっていたからといって、これからの人生がうまくいくとは限らない。なんせなにもかもをリセットして人生をやり直すわけであるから、これまでのこととは表面上切り離されて、またいちから人生を築き上げていかなければならないのだ。

まず友達ができるかどうかもわからない。今までは家族や友達の助けがあったからなんとか歩んで来られた道のりも、ひとりきりで歩まなければならない可能性だってあるのだ。しかし、不思議と不安や悲しみは起こらなかった。このような事態に不安や悲しみを抱くようであれば、そもそも沖縄移住を自ら選び取ったりしないだろう。

10代のぼくにとってそれは宿命のようでもあり、遺伝子がまったく不安に思わないように、外の世界へと羽ばたいていけるようにプログラミングされていたのかもしれない。若い頃から自分とは違う異物たちの中へ、深い思慮なく飛び込んでいきそこで適応力を養うことは重要である。ぼくは自分自身の人生が旅のようになることを暗示され、早め早めに適応力のレッスンを直感のうちに強いられていたのかもしれない。

 

 

・純粋で宿命的な魂

そのように地理的な知識もゼロ、友人も知人も家族もゼロ、スーパーマーケットの場所すらわからずしかも車のないようなまったくのゼロの状態から、沖縄の生活はスタートした。これは人生をかけた実験であるかのようでもあった。人間は果たしてゼロからでもやっていけるものなのだろうか、それほどの力があるのだろうか、それとも無残にも異国の風の中へ散っていくのだろうか。

それを自分自身の人生で試してみることは非常に興味深くそして楽しいことだった。これを他人の人生を試しに使って覗き見するようではいけない。自分自身は安全な温もりの中にいるのに、挑戦する人々を横目で観察しながら、自分がどうするべきかを安らかに思案することは野暮であり、厚かましい根性だ。そのような人々は、挑戦する人が失敗したときには、失敗したのが自分でなくてよかったと小賢しく安堵し、失敗を嘲笑し、再度安全な場所での人生を進めていくのみだ。そして成功した時だけ、その成功例を踏み台にして挑戦なしに自分自身に取り込もうとする。

非常に合理的で賢い立場を守っており、人間というものにはそのような種類のものが大半だと見受けられるが、果たしてそのような小賢しい人生が真理を自分自身に与えてくれるだろうか。安定や、安心や、失敗した人々を見下すことによる優越感を得られるかもしれないが、どうせ死んでしまう命の中でそのようなものはどれほどの価値を放つのだろう。むしろそれらの温もりが自分自身の命の格を下げることにも繋がりかねないのではないだろうか。

ぼくはそのように挑戦する人々を安全な場所から横目で覗き見するような魂よりも、ことごとくこの世で傷ついてもいいから潔くすべてを投げ出して旅立つような魂の道を選びたい。そしてあらかじめ決められているように、ぼくはそのような道へと導かれるようにできている生命なのだ。

純粋で宿命的であればあるほどその魂は浮世で傷つき、誤解され、または破滅へと導かれる傾向にある。それでも宿命的である魂はそれを厭うことなく、むしろ受け入れ、邁進し、自らの宿命の道を模索し続ける。それは未開の荒野であり、創造的でもあり、それすらまさに無(ゼロ)からの生まれ変わりの道である。宿命的な魂は、その内側に常に輪廻転生をはらんでいる。たとえそれが同じ一生の中であっても、生まれ変わり、死に変わり、常に転変しているものである。人生は宿命によって忙しく、それゆえに浮世の人々の意味のない言葉を聞いている暇はないのだ。

 

 

・ゼロからでも人はやっていける

結局は10代という幼い生命から始まった沖縄での生活だったが、徐々に生活に必要な知識を蓄え、また車などの必需品も少しずつ手に入れ、1からの人間関係も構築し、沖縄という独特な風土や風俗に触れながらでも、無事に6年間の沖縄の生活を遂行することができた。それのみにとどまらず、沖縄という地で労働し、最後には本島ではなく1年半宮古島にまで移住し、「琉球諸島」という広い文化圏としての沖縄を把握することで、ぼくの沖縄の生活はいったん幕を閉じた。宮古島から今度は、旅に出たのである(ミズイロノタビ)。

沖縄に移り住んだ10代のぼくが、今のぼくに教えてくれる。ゼロからでも、人はやっていけるのだと。

人間は年をとるたびに偉くなると世間では信じられているが、果たしてそれは本当だろうか。聡明な年下もいれば愚鈍な年上もおり、悟りを開いた赤子もいれば欲深い老人もおり、結局は年齢など関係なく、どのような年齢においても、聡明な人と愚鈍な人の割合は一定なのではないだろうか。年下は自分の教師にはならず、年上の言うことに必ず従わなくてはならないと思い込むと、真実を見落としてしまうのではないだろうか。

10代のぼくは今のぼくの先生だ。ゼロからでも、人はやっていけるのだと教えてくれる先生だ。年をとったからと言って、年下の自分が年上の自分よりも愚かであるとは決して限らない。それはあなただって同じことだろう。どのような人間も、どのような年代も、自分自身に何かを教えてくれる先生であり、あらゆる者から敏感に学び取らなければならない。怠ることなく、修行を完成させよう。

 

 

 

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