キリスト教徒や隠れキリシタンは「踏み絵」を踏めないというのは本当か?

 

キリスト教徒や隠れキリシタンは「踏み絵」を踏めないというのは本当か?

・小学校の社会の授業で習う「踏み絵」
・キリスト教徒や隠れキリシタンは「踏み絵」を踏めないというのは本当か?
・ぼくは踏み絵できるのだろうと断言できる理由
・宗教や信仰は、人々の生活を豊かにするためにある
・迷い多き物質に執着することなく、ただ信仰の光の中を歩め

・小学校の社会の授業で習う「踏み絵」

小学校の社会の授業で、「踏み絵」というものを習ったことは印象的だ。日本の江戸時代では徳川家康によってキリスト教が禁止されていたが、それでも密かにキリスト教を信仰し続けていたいわゆる”隠れキリシタン”の人々が存在していた。その隠れキリシタンを見つけ出して逮捕、処刑するために、幕府はキリストやマリアが彫刻された板を人々に踏ませたのだという。

年に数回行われたこの摘発のことを「踏み絵」と言い、キリスト教徒ではない人は踏み絵を気軽に踏めるが、キリスト教徒の人々はためらったり拒否してしまうから、隠れキリシタンを炙り出せるという算段だ。小学生の時に踏み絵のことを習い、昔の日本にはそんなことがあったのか今ではそんなことないよなぁとしみじみ思ったりした。

 

 

・キリスト教徒や隠れキリシタンは「踏み絵」を踏めないというのは本当か?

しかしよくよく考えれみれば少し不思議な感じがする。昔の日本の信心深いキリスト教徒というものは、本当に踏み絵を踏めなかったのだろうか。別にわざわざ敢えて自分の信仰している宗教の風景を踏みつけようなどとは思わないが、その絵を踏まないと幕府に逮捕されたり、処刑されたり、殺されたりするということがわかっているのに、自分の自由や生命と引き換えにしてまでも、踏まないことにより厚い信仰を示そうとするほど人は宗教に対して真面目に熱心になれるものだろうか。

そもそも踏んだら信仰を捨てたということになるという理屈がよくわからない。なんで踏んだだけで信仰を捨てたと見なされるのだろうか。別にその場限りで踏んでも、心の中で信仰を続けることは可能ではないだろうか。これはイコンを神とみなすキリスト教徒独特の感性だろうか。

 

・ぼくは踏み絵できるのだろうと断言できる理由

ぼくは江戸時代の人間でもないし、キリスト教徒でもないので当時の人々の心を計りかねるが、今の自分の心で仮定して考えてみることには意味があるように思われる。もしも平凡な仏教徒であるぼくが「御釈迦様の絵を踏みなさい、さもないと逮捕して処刑するぞ」と国家権力から脅されたなら、自分は御釈迦様の絵を踏み絵できるだろうか。

ぼくは踏み絵できる、と断言できるだろう。それは信仰心が薄いからではなく、御釈迦様を信じているからである。自分の絵を踏みつけられたくらいで、御釈迦様が気を悪くしたり、怒って天罰を下したりするだろうか。ぼくには御釈迦様というのは、そんなに心の狭い人ではないと思われる。そんなことくらいで怒るような短気で軽薄な性格だったなら、こんなに広く人々に尊敬されていないのではないだろうか。

もしも御釈迦様がいたなら「あんたは私の絵を踏みつけたけれど、それは踏みつけないと権力者に逮捕されたり処刑されたりするという理由があって仕方のなかったことはわかっているよ、大丈夫大丈夫!」とおおらかに許してくれるだろう、とぼくは信じている。御釈迦様の広い慈悲の心を信じているからこそ、もしも踏み絵しなさいと言われても、ぼくは踏み絵することができるだろう。もちろん日常生活において敢えて仏を踏んづけたりしようなんて思わないのは当然のことだが、もしも権力者によって強制された場合、ぼくは仏の慈悲を信仰しているからこそ、踏み絵できるだろう。

 

 

・宗教や信仰は、人々の生活を豊かにするためにある

そもそも宗教や信仰というものは、人々の生活を豊かにするためにあるのではないだろうか。それなのに信仰のために自由や生命を奪われてしまったのでは、本末転倒と言えるのではないだろうか。もしも信仰が自分の自由や生命を著しく侵害する可能性はある場合、潔く柔軟に対応し、人間は自分自身の生命をしっかり保護してやるべきではないのだろうか。

ただやみくもに思考停止で宗教を信仰しているだけでは、虚しい。自分の生命よりも信仰が重要だとみなされる場合、それはその信仰に疑いの目を向けるべきだという合図ではないだろうか。ぼくたちは心で宗教を支配し生活を豊かにすべきであるのに、逆に宗教に支配され始めた場合には危険を感じるべきではないのだろうか。

 

 

・迷い多き物質に執着することなく、ただ信仰の光の中を歩め

織田信長は比叡山の焼き討ちの際に、仏像を傷つけることを明智光秀から咎められた際に、「これは仏ではなく、木だ」と言ったらしい。これは興味深い視点であり、このような観点に立てば、たとえ踏み絵したとしても、それはキリストを踏んだことにはならず、ただ単に板という物質を踏んづけただけということになる。板を踏んづけることの何が罪だろうか。板を踏んづけることに、なんの罪悪感を感じなければならないのだろうか。

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木が仏の形をしている、石が仏の形をしている、板がキリストの形をしているからと言って、それらに祈りを捧げるのは人間の興味深い習性である。突き詰めていけばぼくらは、木の切れ端や、石の塊や、ただの板をありがたがりすがりついていることになる。木や、石や、板にあまりに執着しすぎると、本来の信仰を見失うのではないだろうか。本当は、木や石や板の、はるか向こうの彼方にある真理に向かってぼくたちは祈りを捧げているのだ。

たとえ木を切り裂いても、板を踏んづけても、揺るぎない祈りの熱を心の核に感じるのなら、信仰は永遠に引き継がれて行くことだろう。木という物質を切り裂いても、板という物質を踏んづけても、意味のない罪悪感にとらわれることなく、愚かな迷妄の心を抱く必要もなく、清らかな信仰はゆるされるはずである。

 

 

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