仏像の首を切り落とすことは罰当たりだというのは本当か? 〜織田信長比叡山焼き討ちからの教え〜

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タイのアユタヤの首のない仏像たち!!!!!

仏像の首を切り落とすことは罰当たりだというのは本当か? 〜織田信長比叡山焼き討ちからの教え〜

・タイの有名な世界遺産観光地、アユタヤへ行ってきた
・アユタヤで見かけた無数の首のない仏像
・比叡山焼き討ちの織田信長「これは仏ではなく、木だ」
・仏像の首を切り落とすことは罰当たりだというのは本当か?
・偶像崇拝がよくないことだというのは本当か?

・タイの有名な世界遺産観光地、アユタヤへ行ってきた

タイの有名な観光地に、世界遺産のアユタヤという場所がある。1351年にウートン王によって建都されてから、1767年にビルマ軍の攻撃で破壊されるまでの417年間、アユタヤ王朝の都としてタイの中心であり続けた都市だ。日本人にとってはあまり馴染みのない場所かもしれないが、なんとあの沖縄の泡盛もこのアユタヤから伝えられたというのだから驚きである。

そんなアユタヤをぼくが訪れたのは、大学生の頃だった。ぼくはそれまでアメリカ合衆国、オーストラリア、ドイツ、オーストリア、チェコを訪れたことがあったが、タイが初めての東南アジア旅行でありバックパッカーとしてデビューの地となった。大阪からバンコクまで飛行機で飛び、その後は鉄道でアユタヤまで向かった。アユタヤはバンコクから気軽に日帰り小旅行ができるほど比較的近い場所にあった。

アユタヤでは仏教大国タイの迫力を見せつけられる思いで、古の巨大な仏教寺院や涅槃仏に息を飲んだ。同じ仏教国である日本と比べても、タイのお寺のデザインや色彩、仏像のお顔に至るまでこれほどに違うものなのかと驚嘆した。同じ「仏教」といっても東アジアと東南アジアでは一括りにできない、仏教の多様性や柔軟性を感じさせられた。逆にいえばこのように仏教以前の風土や風習にうまく馴染みながら、仏教は広くアジアへ浸透していったとも言えるだろう。植物でいう馴化のような現象が、宗教においても起こっているらしかった。

 

 

・アユタヤで見かけた無数の首のない仏像

 

アユタヤで印象的だったのは、首のない仏像が無数に並んでいたことだ。既述したようにアユタヤ王朝はビルマによって滅ぼされたが、そのビルマとの戦争中にビルマ軍によって仏像はことごとく首をはねられたようだ。同じ仏教国のビルマでも仏像を切り落とすことができるのかと、不思議な思いにかられる。仏の力を信じるからこそ、敵国の仏の力を弱めることで、勝機を勝ち取ろうとしたのだろうか。

 

そんな仏像の首が長い年月をかけて菩提樹によって持ち上げられたという神秘的で不思議な光景を見ることが、ここアユタヤを訪れる人々にとってのメジャーな観光目的となっている。確かに世界のどこでも見られない神聖な光景で、思わず手を合わせたくなる思いだ。

日本にも仏像が数限りなくあるが、ぼくが人生で首のない仏像を見たのはここアユタヤが初めてだった。そんなに熱心な仏教徒ではなくても、仏像の首がことごとく切り落とされる様子を見て胸を痛めない日本人は少ないだろう。ぼくも首のない仏像を連続して見ながら、なんてひどいことをするのだろうと密かに感じていたものだ。いくら国家のための戦争とはいえ、こんなことをした人には罰が当たってしまうのではないかと心配になる。

 

 

・比叡山焼き討ちの織田信長「これは仏ではなく、木だ」

先日「武田鉄矢の今朝の三枚おろし」というラジオ番組をyoutubeで聞いていた時に、実に面白い話があった。それは織田信長が1571年に比叡山延暦寺を焼き討ちをした時のことだ。比叡山延暦寺といえば、平安時代初期の僧・最澄により開かれた日本天台宗の本山寺院である。そんな仏教寺院に織田信長は攻め込み、僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとくはねたと言われる。そして彼は仏像の首も次々に切り落としていったそうだ。

ありがたい仏像にまで手を出す彼の様子を見かねて、家来の明智光秀は「殿、おやめくだされ、仏にございまするぞ!」と織田信長をなだめようとすると、彼は不思議そうな顔をして「これが仏か?これは木じゃ」と言い放ったという。

 

・仏像の首を切り落とすことは罰当たりだというのは本当か?

そうなのだ。織田信長は完全に正しい。仏像は仏ではなく、ただの木なのだ。木を切って何が悪いのだろう。木を切る人なんかどこにでもいるし、それを罪だと咎められるような人もいない。木を切ることを責めた立てる人はそうそういないのに、どうして”仏の姿をした”木を切る時だけはひどく残酷だと蔑まれるのだろう。

仏とは、昔むかし2500年ほど前に、インドネパール周辺で悟りを開いたある一人の男性のことだ。決して仏像が、仏などではない。そもそも彼が死んでから500年の間は仏像が作られなかったという。彼の没後500年経って初めてガンダーラで仏像が作られ始めたのだ。500年前の人物の顔が、誰にわかるものだろうか。全ての仏像のお顔は、真実の御釈迦様のお顔と全く異なっているに違いない。それなのにぼくたちは仏像を前にして、誰の姿に祈りを捧げているのだろうか。

タイのアユタヤで首を切り落とされた仏像に、心を痛めたことは間違いのない真実である。しかし仏像の首をはねるなんてひどい、なんて罰当たりな行為だろうとその犯人を心の中で責めることは一面的であることを、ぼくは織田信長に教えられた気がする。それは仏像ではなく、仏でもなく、石だったのだ。石を切ることが罪となるだろうか。ひどく残忍な行いだろうか。ぼくたちは木や石のたかが形に、心を支配されすぎているのではないだろうか。

仏の形をした木や石を滅ぼしたからといって、仏の教えは死なない。むしろ仏の形をした木や石にすがりつき心を奪われることは一種の執着ではないだろうか。真実の仏とは、悟りとは、真理とは、木や石に表現されるものではない、人の心の中に発現する境地ではないだろうか。木や石などいくら滅ぼされても構わない。どんなに木や石を滅ぼされようとも、仏教の真理が不変な状態で心に光を注ぎ込んでいてくれるなら、それだけで満たされる。

「全てのものは移り変わる」と御釈迦様も遺言として今際の際におっしゃったのだ。移り変わる木や石に、心を奪われ、怒り、憎み、嘆き、惑ってはならない。偶像崇拝というものの怪しさが、ここに集約されているのかもしれない。物質や形状などことごとく超越して、その先に貫かれた不動の真理をその手で導き出せ。

 

 

・偶像崇拝がよくないことだというのは本当か?

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