さぁ悲しみをこえて 行くべき世界へと
夜会「リトル・トーキョー」の「放生」考察!人間にはそれぞれ「ただひとつだけの使命」「行くべき世界」があるというのは本当か?
・中島みゆき夜会「橋の下のアルカディア」の「国捨て」
・中島みゆき夜会「リトル・トーキョー」の「放生」
・癒しの後で「行くべき世界」へと優しく背中を押してくれる「放生」
・「橋の下のアルカディア」の「ただひとつだけの使命」と「リトル・トーキョー」の中の「行くべき世界」は、ぼくたちの人生の目的だ
目次
・中島みゆき夜会「橋の下のアルカディア」の「国捨て」
中島みゆきの夜会「橋の下のアルカディア」は、人間集団の幸福が個人の幸福を犠牲にしなければ成り立たないのか、人間すべての利益を追求するためには人間個人を部品や犠牲や捨て石とするしかないのかという疑問をテーマのひとつとして編み出された物語である。
中島みゆき夜会「橋の下のアルカディア」のあらすじと曲目と考察!社会の幸福は個人の犠牲によってしか成り立たないというのは本当か?
人間集団の幸福のために自らの幸福を徹底的に破壊された3つの生命たちが、最後の場面ではその無念をそれぞれ解決し、救済を得られる。人間集団がその幸福や利益のために個人を捨てその幸福を踏みにじったように、今度は個人が集団を捨て去ったときに、この世に生まれきた生命の本当の意味を知る。その場面で歌われる名曲のひとつに「国捨て」という歌がある。
空ゆく数多の翼には
憧れ抱かせる光がある
この世のすべての翼には
ただひとつだけの使命がある
ぼくたち人間は自らの生命に課せられたただひとつだけの使命を果たすために、この世に生まれついたのかもしれない。もしも誰の生命にもただひとつだけの使命があるとしたならば、あなたの使命とは一体何だろうか。すぐにこれだと潔く答えられるほどに、普段から自らの生命と対峙して向き合って生きているだろうか。それともそんな使命などあるわけはないと、一笑に付すだろうか。
・中島みゆき夜会「リトル・トーキョー」の「放生」
中島みゆきの「橋の下のアルカディア」に続く新作夜会「リトル・トーキョー」は、まるで日本昔ばなしのような物語だった。主人公の女は生きている間に可愛がっていた山犬の子供が心配で死んでからもなお幽霊としてこの世にとどまり、一人ぽっちになってしまった山犬の子供をきちんと元気に育て上げてから成仏していった。野生で立派に生きていけるほどに元気になった山犬の子供を、山へと解き放つというクライマックスで絶唱される名曲が「放生」だ。
さぁ 旅立ちなさい
もう歩いてゆけるわ
さぁ 悲しみをこえて
行くべき世界へさぁ 旅立ちなさい
もうすべて変わるとき
さぁ 踏み出してごらん
行くべき世界へ命ある者すべて
終わりはある 別れはある
解き放て 解き放て
輝いていてくれるように
聞き慣れない言葉だが「放生」とは仏教用語で、囚われた動物たちを自らの手で解き放ってやり徳を積む行為を指すのだという。まさに夜会「リトル・トーキョー」の中でも、傷ついて一人きりでは生きられない仔犬を救助し、クラシックホテルの中で育て上げ、元気になったことを見届けてから自由な野生の世界へと解き放っていった。仔犬にとって「行くべき世界」とは、まさしく野生の大自然のことだったのだろう。
人の住むクラシックホテルで過ごし、元気になるまで育てられた仔犬にとって、野生へと戻っていくのと、このまま仲良くなった人々と一緒にホテルで飼われるのはどちらが幸せだったのだろうか。仔犬にとって常に安全で、暖かさも確保されて、食べ物も必ず供給されるクラシックホテルの方が、圧倒的に安定した余生を送ることができるだろう。
しかし夜会「リトル・トーキョー」の中では仔犬と別れてさみしさを感じようとも、元気になった仔犬にとって「行くべき世界」とは疑うことない野生の大自然であると信じ、中島みゆきの「放生」の絶唱と共に仔犬は元いた北海道の大自然へと解き放たれる。
・癒しの後で「行くべき世界」へと優しく背中を押してくれる「放生」
「放生」がただの犬を自然へと解き放つ歌だと解釈するのは困難だろう。「放生」はそのまま聞いているぼくたち人間の人生にも当てはめることができるのかもしれない。
例えば人が生きていれば少なからず心が傷つき、もう生きていけない、動き出すことができないほどまで打ちのめされる日があるだろう。そんな時に中島みゆきの歌を聞いて慰められ、元気付けられ、あともう少しだけ生き延びてみようと前を向けた人もいるのではないだろうか。そんな人にとって「放生」の歌詞は、まさに中島みゆきからのメッセージのように心の中で響き渡ったに違いない。
ことごとく人の世で傷つけられた生命が、中島みゆきの歌によって心が癒され、浄化され、元気付けられ、その結果としてもう健康に生きられるほどに心が元通りになった。しかし本当はひとりで歩き出せるほどに元気になったにもかかわらず、また以前のようにことごとく傷つけられることが怖くて、今の状態の方が安全で居心地がよいあまりに、新しい世界、自分が本当に行くべき世界を心で直感的に知りながらあと一歩を踏み出せずに、癒しの歌にだけすがりつきながら部屋の片隅で立ち止まって動けない。そんな停滞した魂を持った人々に向かって「放生」は、もう十分癒されたのだから、もう自分自身で歩いていけるのだから踏み出してごらんと、優しく背中を押してくれているようにも感じられる。
いつまでも同じ状態でいられる人はいない。いつまでも同じ場所にはいられない。人はどんなに恐ろしくても、安定した今の場所を離れて、昔懐かしい人々と別れを告げて、次に行くべき世界へ、本当に行くべき世界へと旅立たなければならないという宿命を担っている。旅立たずに同じ場所に留まり続けた魂は、新しい風を受けずに、清らかな新陳代謝を為さずに、そのまま腐敗して消えていくことだろう。魂は動き続けるからこそ、ふさわしい国へ旅立ち続けるからこそ、かろうじて永遠の感覚を保っていられるのだ。
・「橋の下のアルカディア」の「ただひとつだけの使命」と「リトル・トーキョー」の中の「行くべき世界」は、ぼくたちの人生の目的
ぼくには夜会「橋の下のアルカディア」の中の「国捨て」の中の「ただひとつだけの使命」と、夜会「リトル・トーキョー」の中の「放生」の中の「行くべき世界」には、何か共通するようなものを感じる。もしかしたら「ただひとつだけの使命」と「行くべき世界」というのは、同じものを指しているのではないかという気さえしてしまう。
ぼくたちの「ただひとつだけの使命」や「行くべき世界」というものは、実は生まれる前からもう既に決まっているのではないだろうか。この世に生まれてきた時にはぼくたちはみんな「ただひとつだけの使命」や「行くべき世界」をちゃんと明確に知っているのに、生きていくほどに忘れがちになり、ついには大人になってすっかりわからなくなり、自分がなんのために生きているのかわからなくなり心が困惑し迷うのではないだろうか。
ぼくたち人間は「ただひとつだけの使命」を果たしたり「行くべき世界」へと旅立つために生まれてきたのに、そんなことをすっかり忘れて学校や人間の世の中で、どうすれば上手に世渡りができるのかとか、どうすれば安定した食いっぱぐれのない人生を送れるのかとか、どうすれば他人に見下されない恥ずかしく思われない生活を手に入れられるのかとか、どうすれば安全に傷つかずになるべく死ににくい道を歩めるのかとか、そういう本当にどうでもいいくだらないことばかりを植え付けられ、自ら思考することを放棄し教え込まれた通りに生きていくことで、果てしない迷妄の世界へと迷い込んでしまっているのではないだろうか。
しかし人の世にすっかり洗脳されたくだらない大人の魂も、奥底の核の部分ではきちんと「ただひとつだけの使命」や「行くべき世界」の感覚を覚えており、ぼくたちは本当はそれらを果たすためにこの世に生まれてきたこともきちんと知っている。安定した暮らしではなく、安全な傷つかない人生ではなく、どんなに不安定でも、どんなに傷ついてでも、死にそうになるくらい危険であったとしても見たいと願ってしまうほどに尊い景色が、誰の魂の根源にも焼き付いているはずだ。
人生に迷って地図さえないというのなら、他人に書かれた自己啓発本や偉人の名言集なんかにすがりつかずに、まず「ただひとつだけの使命」や「行くべき世界」の感覚を取り戻すべきではないだろうか。蘇らせるべきではないだろうか。人生の地図は、道しるべは、見知らぬ他人の言葉ではなく、自らの根源に誰もが隠し持っているはずなのだ。しかし直感的に透明な感性で「ただひとつだけの使命」や「行くべき世界」を取り戻すためには、かなりの修行が要る。まずはこの世のすべての愚かな思い込みや洗脳や常識の穢れを取り払うことが重要だ。
このブログ「みずいろてすと」のタイトルはすべて「〜は本当か?」という言葉で統一されている。世の中の思考停止した怪しい正しさや常識を一から考え直し、自分なりの答えを見つけ、それがたとえ世の中で言われていることとは異なっていたとしても、ぼくは自らの感性を信仰し、自らの答えを抱きしめるだろう。このブログは、ただの修行だ。「ただひとつだけの使命」や「行くべき世界」を取り戻し、透明で清らかで穢れのない水晶体を呼び覚まし、自分が何のために生きているのかその人生の目的を見出すという、人間として最低限のふるまいを引き起こすための、ささやかな祈りの領域だ。