性格の悪い人を責めてもいいというのは本当か? 〜人は誰でも呪われている〜

 

生まれてから決まるものはどれだろう。生まれる前から決められているものは何だろう。

性格の悪い人を責めてもいいというのは本当か?

・生まれる前/生まれた後
・性格の悪い人の非難
・独占欲の強いぼくの性格
・自作詩「春の少年」

・生まれる前/生まれた後

人には“性格”というものがあると言われる。その人が他の人に比べてどのような性質に傾いているかということだ。明るい性格とか、元気だとか、怒りっぽいだとか、悲観的だとか、じっとしていられなだとか、とにかくこの世には様々な性格があるらしい。しかし日常でよく使われるその“性格”とはいったいどこから始まってどのように成立するのだろうか。

生まれる前から性格というのは決まっているのだろうか。お母さんのお腹にいる時から、よく動くような元気な子と、あまりお腹を蹴らないおとなしい子がいると言われるが、それでは元気で積極的な性格か、大人しくて消極的な性格かは、運命的に既に生まれる前から決められているということなのだろうか。それともお母さんの栄養や健康の状態が、お腹の子に影響を及ぼし性格が決定されるとでも言うのだろうか。ぼくたちは生まれた時には既に何か与えられた先天的な性格というものが存在しているのか、それとも真っ白なキャンバスのような状態で生まれてきてそこからこの世界によって性格が彩られていくのか、あるいはその両方なのか、興味深いところである。

最も考えやすいのは幼少期の環境であると言われる。家庭の環境や両親との関係が、その子の性格を形作って行くという説明は、あながち間違いとも言い切れない説だろう。円満な家庭で育てばのびのびとおおらかな性格が培われるかもしれないし、両親の仲が悪ければ人の心を伺い知ろうとするような思慮深い子供になるかもしれない。またはぼくがこの前にも書いたが、最初の子供か2番目か3番目かはたまた一人っ子かで性格がある程度変わってくるというのは、周知の事実であるように思う。

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幼少期の子供にとって、家庭は世界そのものだ。その中で培われ育まれる人間性が、それからの人生にも大きく影響を与えるというのは間違いないことのように思われる。それゆえに幼い頃にどのようなことに傷ついたかは、その人の人間性にとっても重要な事項となることだろう。

 

 

・性格の悪い人の非難

あの人の性格がどうだとか、この人は性格が悪いだとか、日常性格でもそのような会話が飛び交うこともあるが、その性格はいったいなにに起因するものなのかと思慮する者は少ない。性格というのがどのように決定されるのか定かではないのも原因だと思われるが、それでも少し慮ってみる必要があると思うのだ。

性格なんておおよそが幼少期またはそれ以前に定着したものだろう。生まれる前からそれが出現するのか、生まれてからの外因がそれを作り出すのか、またはその両方かは定かではないが、いずれにしてもその人のせいであるという性格はない。すべては運命や環境的な外因によるものばかりだ。自分でその性格になろうとしてなっている人などいないだろう。いずれも運命的に決定づけられ与えられたか、もしくは環境の問題だったとしても自分の外部の環境を決定でき選択できる子供などいない。すべてはどうしようもなく与えらえた性格ばかりだ。

あの人は性格がおかしいだか、性格が悪いとか噂している人は多く、そのことにより当の本人を否定できている気持ちになっている者もほとんどだろうが、それは浅はかな考えと言う他はない。その性格になりたくて望んでなる者などいないからだ。すべての性格はどうしようもなく遮るすべもなく受け取り与えられたものばかりだ。それによりおかしな性格になったとしても、その人には自分自身で決めようもなかったその人の周りの環境や受け取った運命が悪い方向に働いただけで、その人が悪いと責め立てることはできないのではあるまいか。

しかし思慮の浅い人間たちはその人の性格が悪いということでその人の人間性を否定し、それを噂しあって喜んでいるようであり、そのような風景を度々見かける。その風景は小さな子供だけでなく、大人になろうが、偏差値が高かろうが見られる社会の様子である。思慮や慈しみを持たずして生きている人間たちは数多く、いつも誰かを攻撃していないと自分自身を保てないようである。

誰もが自分ではどうしようもなかった運命的な自分自身を携えながらこの世をたどたどしく生き抜いているのだ。誰もがそうであるように、他人の受け取った運命を慮って、気遣いながら思いやりながら生きていくことが人間にとって重要ではないだろうか。

 

 

・独占欲の強いぼくの性格

誰もが自分の性格または自分自身に不可解な感覚を抱きながら生きている。どうして自分はこのようになってしまったのだろうと思い悩み、理由をさがしても自分自身では見当たらず途方にくれることもしばしばである。自分自身のことは自分がいちばんわからない。その性格が幼少期に無意識に培われたものであるならばなおさらである。もしくは生まれる前から決定されていたというのではどうしようもない。見えない記憶や思い出せない傷が、その人の人間性を支配しており、それがまた連続して、その人のさらなる運命を司っていく。生きるとはなんて残酷でどうしようもない行為だろう!

ぼくが自分自身のことを思い返せば、自分の性格がなぜこうなったのか思い当たる節がひとつだけある。それは以前書いた最初の子供は大人しい性格になるということにも関連するものである。

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一番はじめの子供は両親の愛情をこれでもかと言わんばかりに受け取って育つ。いつでも自分を見ていてくれるし、どんなことをしても喜んでくれる。そしてそれが通常であると信じ込む。そんな時に2番目の子供が産まれる。するといきなり両親の注意が2番目の子供に独占されがちになる。以前のように自分に注目してくれなくなる。それに絶望し訳もわからずに泣いて訴えても両親は「おにいちゃんになったのだからしっかりしなきゃだめ」とさらに訳のわからぬ理屈で最初の子供を責め立てる。勝手に自分たちで不明な生物をどこからか連れてきたのに関わらず、乱暴に最初の子供とその生き物との間に兄弟という関係性を構築し「おにいちゃん」というものの性質を押し付けてくるのだから意味がわからないしたまったものではない。その時の最初の子供の果てしない絶望はこの世のものとは思えないほどだろう。

ぼくは小さい頃“共有すること”が苦手だった。なにかひとつおもちゃがあると、“みんなのもの”として使うということがとても嫌だったのだ。自分のものならば自分だけの掌のもとにとどめておきたかったし、自分のものでないのならいっそ退けてしまいたかった。どうしでも誰かと共有するというのは嫌だったのだ。これは生まれる前から決められた運命的な性格だろうか、それとも原因は外因的な環境的素因だろうか。

ぼくは大きくなってからわかったのだが、自分の宝物は自分で独占しなければならないと思っていた。なぜならば外来の見知らぬ生命に、自分の最大の宝物であった両親を奪い取られる経験を知ったからである。それが2番目の子供が生まれたというときだ。兄弟ができるということは大人からしてみればただの喜ばしい現象だが、小さな赤ちゃんの最初の子供にしてみればそれはとてつもない大事件だったのだ。しかし赤ちゃんであったところのぼくの気持ちを察してくれる大人などいるはすもない。

最大の両親という宝物を奪い去られる経験をしたぼくは、宝物は常に力強く握りしめて離さないでいなければならないことを学んだ。いつまた意味のわからない外来の生物に奪い取られるかわからないからだ。あんな絶望的で悲しい思いはもう二度としたくない。もう二度と宝物を失いたくない。そのような思いが赤ちゃんのぼくに独占欲を強くさせたのだと思われる。誰もがどうしようもない運命的な傷とそれにともなう性格を生きている。誰に対しても、幼い頃に傷を負ったのですねと慈しみをもって接しなければならない。

 

 

・自作詩「春の少年」

海が少し春の色をしている
淡い光の中を少年は微睡む
少年はいつも春の色をしている
時を貫かせない異国を生きている

光が好きなことも
夏を好きなことも
南を好きなことも
水が好きなことも

生まれる前から決まっていたみたい
理由を語る言葉を知らない
直感だけを感受する受容体を
天に向けて開き切っている

あたたかな季節を迎えるたびに
濃くなる青い液体
放出されないもどかしさと幸福が
光の中にあふれだす

足の先はまだ少し冷たい
そして確かなぬくもりを
淡い光と空気の内側に感じて
少年は夢を見ている

 

 

 

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