人々はいつも新しいものに飛びついてゆく。
新しいものの方が古いものよりも優れていて素晴らしいというのは本当か? 〜新しい仏像なんて拝めない〜
・人々は新しいものを求める性質がある
・新しいことよりも古いことの方が価値のあるもの
・ぼくは新しい仏像を拝めない
・新しくてありがたがられるもの、古くてありがたがられるもの
・人々は新しいものを求める性質がある
新しいのと古いのどっちがいい?と聞かれたならば、大抵の人は新しいものの方がいいと答えるのではないだろうか。なんだって新しいものの方がいいに決まっている。服だって新しいものの方が気持ちがいいし、本だって綺麗な新品の方が嬉しいし、食べ物なんかでも古いとお腹を壊してしまうし、電化製品だって最新のものの方が性能がよくて快適に使えそうな気がする。ぼくたちはいつも新しく綺麗なものに手をのばしてしまうが、ぼくたちは本当に新しいものの方がいつもいいと感じるのだろうか。
・新しいことよりも古いことの方が価値のあるもの
新しいものよりも古いものの方が価値があるというのはどのような場合だろうか。たとえば骨董品なんかは、古くて珍しいからこそ貴重だと見なされて高い値段を付けられているような気がする。駅なんかも、最近よく古いものが取り壊されて無駄がなく情緒のない合理的な駅がよく建てられているが、ぼくは台湾なんかで見かけるような昔の日本が作ったレトロなものの方が味があってものすごく素敵だと思う。人間なんかも、いろいろな側面があるだろうが、老人が語って聞かせてくれる話の内容には古いからこその含蓄が感じられてぼくは好きである。儒教的にも年上の方が有無を言わさず目上で偉いと決めつけられている。
・ぼくは新しい仏像を拝めない
ぼくは今、四国でお遍路をして88箇所のお寺を回っている最中だが、お遍路をしていて感じたことは、お寺、仏像、銅像、神さまも、古い方がはるかに価値があると感じられるのはぼくだけだろうか。
神や仏に古いも新しいもないのかもしれないが、やっぱりお寺が古い感じがすると、おおすごい!と大きく心が揺さぶられ感動するし、仏像やお地蔵さんも古くて歴史を感じさせられるものの方がありがたいと心から思える。
逆にお寺の建物が新しくて綺麗な感じがすると、ちょっとがっかりしてしまう。普通は綺麗で最新の建物の方がいいと思いそうなものだが、お寺が新しさにあふれた綺麗さを醸し出していると、お寺にも何か建て替えなければならない事情があるのかもしれないものの、残念な感じがしてしまう自分自身を発見する。
88箇所もお寺を回っていると、様々な仏像や銅像を拝見するわけだが、見るからにツルツルで最近作られましたという綺麗な仏像がお寺の庭園などに建てられていたとしても、なんだか全然拝む気になれないのが本心だ。下手したら新しすぎて自分より年下の感じがする石の銅像を、人々は拝む気になれるのだろうか。
仏像というのは、仏の形さえしていれば仏像になれるのだろうか。ぼくはどうもそうではない気がする。いくらありがたい仏の形をしていても、それが新しい様子をしていると、ぼくの心の中ではそれが仏像にはならない。これは誰から教えてもらったわけではないぼく自身の直感の問題である。みなさんはどうだろうか。プラスチックのような物質でできた東南アジアや中国らへんの仏像も全然拝む気になれないのもぼくのこの感覚が原因なのかもしれない。ありがたい仏像というのは、木とか金属でできており、古びた情緒を帯びていなければありがたいと感じられないのは日本的な感性だろうか。
・新しくてありがたがられるもの、古くてありがたがられるもの
ぼくのこの感覚は何に由来しているのだろうか。あるものは新しいものの方がありがたがられ、またあるものは古いものの方が人々にありがたがられる。新しいものの方がいいものと、古いものの方がいいものとの境界線はどこにあるのだろう。また、何がそれを定めているのだろう。考えてみてもよくわからない、ぼくの人生に残された宿題である。