人が確かな自分の意見を持っているというのは本当か? 〜容易く移ろう人の心〜

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人間の意見は移ろいやすく、すぐに飜る。

人が確かな自分の意見を持っているというのは本当か? 〜容易く移ろう人の心〜

・海鮮スープに移ろう人の心
・裏切り人を傷つけるさまよいの心
・自分自身の中に揺らがない羅針盤を

・海鮮スープに移ろう人の心

 

スペイン巡礼中、ぼくはある宿のキッチンで日本人の友人と料理をしていた。スーパーマーケットで安く買い込んだタコとイカとムール貝を使って、海鮮スープを作ろうと考えていたのだ。ぼくたちはイタリア人2人とその宿で食事を共にしようという約束を交わしており、ぼくたち日本人2人が海鮮スープを、イタリア人たちが主食のパスタを作ってくれるという予定になっていた。

ぼくたちはスペイン巡礼の旅の途上でよく野菜スープを作っていた。玉ねぎとニンジンとジャガイモと生ハムを鍋に入れて、持参のコンソメスープの素を溶かせば出来上がるという簡単なものだが、これがいつも美味しく、やはり料理は自炊したものが一番美味しいのだと考えていた。いつも野菜スープばかりでは芸がないので、今回は野菜を海鮮に変え、初めての海鮮スープに挑戦しようとしていた。挑戦と言ってもいつもの野菜を海鮮に変えるだけだ。野菜スープもそれで美味しくできるのだから、海鮮スープもそれで美味しくできるだろうと単純な発想で考えていた。

そして実際に海鮮スープを作っていく。野菜のように剥いたり細かく切り刻まなくてもいい分、野菜スープより簡単だった。大雑把にタコやイカを切り刻んでいく。それらとムール貝を鍋に入れ、いつもの持参のコンソメスープを入れれば美味しく出来上がるはず…だった。

 

しかしなんとも予想外に、ぼくの持参のコンソメスープの素と海鮮の風味が、あまりマッチしていなかった。ぼくと友人だけで食べるなら別にちょっとくらい美味しくなくても平気だったが、仲良くなりたてのイタリア人にも食べさせるので、なんとか美味しくしなければならない。友人もこのスープの味はなんだかあんまり美味しくないと、ぼくと同じ意見を言っている。試しに隣にいた韓国人のおばちゃんにも試食させてみたが、普通に美味しいけどもうちょっとやなという意見である。やはり何か不協和音というか、物足りなさを感じさせる海鮮スープなのだ。

ぼくたち2人はどうすればこの海鮮スープの味を改良できるのかと悩んでいた。そんな時にこの巡礼の旅で知り合った韓国人グループがキッチンにやってきたので、彼らにも試食をさせた。彼らは口々に、すごく美味しいよ!これで大丈夫大丈夫!とぼくたちに言ってくれた。ぼくたちは何かが足りない気がする、何か味を改良する方法を叶えているのだと話すと、改善しなくてもいいよ!これで十分美味しいよ!深く考えない方がいいよ!と、その海鮮スープが美味しいという意見は変わらなかった。

住んでいる国が違えば当然味覚も異なってくるのかもしれないが、確かにぼくたち日本人2人には違和感のある味だったのだ。彼らはしきりに、これで大丈夫大丈夫と励ましてくれたが、ぼくは自分の味覚的な直感に従い、やはりこの海鮮スープをどうすれば改良できるのか試行錯誤を続けた。しかしここで驚いたのは、一緒に海鮮スープを料理していた日本人の友人の顕著な意見の変化である。

彼は最初、その海鮮スープを実際に味見し、そして違和感のある味だという意見を持っていた、だからこそ、ぼくたちは2人でこの海鮮スープをどのように改良すればいいのか悩んでいたのだ。しかしその後、韓国人の友人たちが次々にこの海鮮スープは美味しいという意見を述べた後には、彼の意見は180度変わっていた。このスープはこれで美味しいよ!大丈夫、大丈夫と、なんと彼の意見は韓国人たちの意見と同様になっていたのだ!

なんということだろう!最初はこのスープの味に違和感があるという意見で一致してぼくたち2人はこのスープの味を改良する方法を懸命に模索していたのに、美味しいこれで大丈夫という肯定の言葉のシャワーを数人の韓国人たちから多数浴びせられた途端、それだけで彼の意見はまるで風の中に揺れ動く旗のように翻り、つい5分前とは全く逆の意見を述べるようになっていた。人間の意見というものは、こんなにも速やかに容易く移り変わるものなのだろうか。

しかしぼくはそのような多数の肯定の言葉のシャワーにも心を移ろわせることがなかった。自分の味覚の直感で、このスープは違和感のある味であることに変わりはなく、だからこそ改良が必要なのだという意見を変わらずに持っていた。そして瞬時のうちにすっかりスープに対する意見が変わってしまった友人を気にせずに、今度は一人でどのようにこのスープを改善させるかを考えていた。するとさらに驚愕する言葉を、その友人から聞くことになる。

「この味で美味しいから大丈夫だよ!もう考えなくてもいいんじゃない?」「これで美味しいのに、そんなに考えるなんて怖いよ!」とからかうように笑ってきたのだ。

なんという即座な心の移ろいだろう!さっきまで言っていたことと全然違う!さっきまでは一緒になって、このスープの味は違和感があるという前提のもと、どのように改善するかと協力して考えている仲間だったのに、多数派の意見に流され翻弄されて考えを翻した結果、今度は少数派となったぼくに「怖い」という否定的な意味合いを含む言葉さえ投げかけてきたのだ!自分が多数派に所属した安心感だけでは飽き足らず、今度は少数派の意見に否定的な色彩を充てがうことによって、さらに自分の地位を高めようとする潜在的な心の動きが見て取れる。

しかしそのスープの味の違和感は、彼が自分自身で実際に味見した結果の、彼自身の味覚的直感から来ているものなのに、そうやすやすと多数の他人の意見によって、自分の直感や感性まで裏切る事ができるものだろうか。

 

 

・裏切り人を傷つけるさまよいの心

しかしこのような人の心の移ろいは、実際は驚くに値しない。このような完全な翻りや裏切りは珍しくもなく、実際の人間社会の中やインターネットの波の中でいくらでも観察が可能だ。心の位置情報が定まっていない人間は、絶え間なく揺れ動く人の思想の波に飲み込まれ、自分自身の本当の姿を見失っていく。それはまた批判するべきものでもなく、大抵の人間というものはこのような様子なので、そうかそうか普通の人間の心の有様だと遠くから眺めるくらいが丁度よかろう。

本来の自分の気持ちとは全く異なっている態度や意見であっても、他人たちの心の波の動きに従い影響され、自分が傷つかないように、または小賢しく利益を得るように振る舞う様子は、人間たちの中に多々見受けられる現象だ。自分の直感や感性、根底の軸にそぐわないことでも、人々の心は浮世の中でたやすく移ろい、本来自分の感性が自分に語りかけ教えてくれていたものが、何であるかをすっかり忘れてしまう。自分が本当は何を感受じていたのかがわからなくなり、道しるべを失った不安さのあまりに、自分が得になるように、利益を得られるようにと、それだけを頼りに人生を進んでいく。彼には自分がどのような世界に住んでいるのかがわかっていない。そしてその先に待つのは、自分の弱さと引き換えに、やがて人を否定し傷つけることだ。

実社会ではとらえにくい人間たちの心の波の動きも、インターネットの世界の中だと可視化され見やすくなっている。先ほどまでは別の意見を持っていたものが、多数派の意見という巨大な波が押し寄せてくるのをキャッチすると、即座に波に飲み込まれ思いを翻し、真逆の意見を掲げ始める。そしてその先にあるものは、結局多数派という安全地帯の中から、槍玉に挙げられている小さな特定の人間たちを攻撃するという構造だ。

そして攻撃されているのは、大抵攻撃している人々の人生や生活とは、およそ無関係な人々だ。自分の人生とは全く関係のないどうでもいい人々のことを、実生活のストレスの発散からか、インターネット上でもしくは心の中だけで攻撃して、勝ち誇ったような感覚を味わう。いつもは自らの弱さに苛まれている精神が、架空の多数派の集団に所属することによって強力な力を手に入れたかのように錯覚し、蜃気楼のような優越感に浸っている。しかしその実、集団の生み出す悪意に飲み込まれて動けなくなっている。

 

 

・自分自身の中に揺らがない羅針盤を

心が移ろえば移ろうほどに、苦しむのは自分自身だ。自分が世界のどこにいるかもやがてわからなくなり、道を見失って途方に暮れる。人生はスペイン巡礼の道のように、いたるところにある黄色い矢印が、人を聖なる地まで導いてはくれないのだ。

ぼくたちはどのような地図を、心の中に保っておくべきなのだろうか。鳥があたたかな異国へと過たず向かうように、鮭がはるかなる異国から生まれた川をさがし当てるように、まさにそのようにしてふさわしい場所へと帰っていくための、ぼくたちの羅針盤はどこから生じるのか。

中島みゆきの夜会「24時着0時発」に導かれ秋の北海道・知床半島へ鮭の遡上を見に行ってきた

最も大切なことは、自分自身の直感や感性を容易く踏みにじらないことではないだろうか。自分自身の奥底から湧き水のように清らかに出現し、語りかけてくれている言葉たちへ、耳を傾けそれを疑わず、強く信じることができるだろうか。迷妄の中をさまよい、集団の悪意へとひたすらに飲み込まれてしまう魂は、この言葉を失くしている。誰もが生まれた時にはこの言葉が明らかに聞こえているが、浮世の濁りにさらされているうちに、この言葉を聞きとる耳を落としてしまう。誰もが聞こえていたものが聞こえなくなる。あらゆる動物たちが知っている言葉を聞き取れなくなる。人間だけが戸惑い、憔悴し、辿り着けなくなる。

集団が与えてくれる偽物の強さに惑わされずに、ぼくたちは心を清らかに保ち、聞きとるための耳を保ち続けよう。もう既に失くしてしまったというのなら、受容体を磨くことにより持っていたかつての魂へと泳いで渡ろう。真実のはるかなる旅立ちを決めよう。聞き取った言葉を生命の軸として、迷いを退け歩き続けよう。

 

 

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