歌は娯楽であるというのは本当か? 〜ぼくにとって創造とは〜

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どうしようもなく浸み出すもの。

歌は娯楽であるというのは本当か? 〜ぼくにとって創造とは〜

・辞書といふもの
・ぼくの中の「歌」の意味
・ぼくにとって創造とは
・自作詩「感性の灯火」

・辞書といふもの

世の中の歌というものには、いろんな種類のものがある。しみじみと渋い演歌から、盛り上げるためにある明るい歌、クールなすかしたものから、悲しく切実なものまである。どれもこれも「歌」には違いないものの、自分の中での歌の定義を誰もが持っている。

「歌」という言葉に限らず、誰もが自分だけの言葉の意味を持っている。誰もが自分だけの「愛」の意味を持っているし、自分なりの「林檎」への思いを持っている。それぞれの人が人の数だけ、知っている言葉分の各々の意味を持ち合わせているにもかかわらず、人間同士の会話の中で「歌」と言えば伝わり、「愛」と言えば通じ合い、「林檎」と言えばあああのことかと納得してしまう、言葉というものにはとても不可思議な力がある。そこにはいわゆる”言霊”とでも言うべき不思議な力が宿っているのだろうか。

ぼくの中の「林檎」とあなたの中の「林檎」の最大公約数を抽出したものが、辞書という書物となるのだろう。しかしその範疇から大きく外れた言葉の意味を内に秘めている者にとっては、言葉による孤独も生み出されることだろう。

 

 

・ぼくの中の「歌」の意味

ぼくの中では、明るい歌や楽しい歌、盛り上がる歌というものは、決して「歌」であると見なさない。それは日本語では歌という言葉で表現されるし、多くの日本の人々にとっても歌であるところのものが、ぼくにとっては全く歌ではなく、ただの浅はかな言葉の羅列にしか聞こえない。

ぼくの中での歌とは、悲しいものであり、切実なものであり、怒りの権化であり、苦しみの海である。そういうものを表現しているものではないと、ぼくはそれを歌と思えない。その理由を問われても、ぼくは答えない。それは言葉で言い表すことができるほど表層的でなく、むしろ根源的で本能によるものであり、野性の感性とでも言えるような直感である。

日本の芸能というものの起源が、古事記において天照大神を天の岩戸から誘い出すためのアメノウズメノミコトの舞いから始まったように、まさにそのようにして、歌というものは、神と通じるもの、精霊と通じるもの、そのような気配を感じるような神聖なものでなければならないという直感が、ぼくの中に渦巻いている。

 

・ぼくにとって創造とは

歌に限らずどのような創造物においても、ぼくは切実さを求める。人を楽しませようとか、幸せにしようとしてのんきに創ったものにはまったく興味がなく、むしろ作らざるを得なかったもの、別に創造なんてしたくないにも関わらず、創造して出力せずにはいられないほどに内部に何かを抱え込んでしまった精神の切迫した気配を感じる時にこそ、ぼくは創造物の尊い価値を感じる。そしてそれ以外のものを意味のある創造物とは見なさない傾向にある。世の中でそれをどんなに「作品」だと名付けられようとも、ぼくにとっては作品ではない作品が数多く存在する。

生み出したくなんかないのに、生み出さざるを得ない定めを担った生命は気高く、素敵だ。そのようなものにしか心から魅力を感じないことによって、自分自身もそのような精神構造を築き上げられるのかもしれない。ぼくだって本当は創造なんてしたくはない。本当は多くの人々がそうであるように、ぼんやりと何も考えることなく周囲の流れに従い部品として操られるように生きた方が楽だし気楽だろう。世の中を遡上することも、人の心に逆らうということも必要ない。しかしそのような気楽さを、運命は決してゆるさない。

ぼくはいつしか抱えきれないものを、内側から浸出させることにより、望まなくても知らず知らずのうちに創造を開始していた。それは言葉であったり、絵であったり、写真であったり、歌であったり、その形態は不思議と様々である。形態は意味を成さず、どうしようもなく浸出してしまうことが大切なのだろう。創造とは自らの肉体により、自らの内面世界を具象化するという点において、もしかしたら旅する自分自身も創造物なのかもしれない。

そして創造を開始すると共に、自分と同じような浸出性の芸術を浮世の中にさがし求め、今までには興味を示さなかった創造物にも積極的に触れるようになっていった。自分自身が創造することにより、想像する自分自身の正体を深めたいという観点から、他人の創造に興味を抱き、触れ、芸術的な人間へと導かれるということは、想像するという行為の副産物と言える利点だろう。

そもそも人生のうちで自分が創造するということすら意外性に富んでおり、知らず知らずであり、無意識であり、まるで導かれたようでもあり、運命的でもあり、直感的で野性的でもある。自分の職業とは一見関係なさそうな運命を背負ってしまった身の上について、自分の職業と自分の創造的な運命をどのように生きていく上で擦り合わせていくかということは、俗世における大きな課題のようでもあり、その実それについて深く思案してもせんがなく、ただもはやこのような運命を担ってしまっている以上、直感の声に静寂の中で耳を傾けるのみである。

 

 

・自作詩「感性の灯火」

したいという欲望から
生まれるものよりも
せざるを得なかったという
どうしようもない祈りから
生まれた創造物の方が
はるかに気高く美しい

燃え上がるように
紅く高く天を貫いて
滲出するように
青色の悲しみや苦しみが
仕方なく異国へ旅立つように

 

感性が持続するのは
なにひとつ古くならないから
美しいものは
あらゆる時で新しい

 

生まれて初めて
鏡を見た赤子のように
いつまでも見続ける
どこまでも不思議がり続ける

本当に生まれてきたのか
本当に生きているのかさえ
わからないほどに
疑わぬほどに

世界は常に更新を続ける
まるで光みたいだ

追いつけなくても
追い越しそうでも
感性の灯火を頼りにぼくは

 

 

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