他人に迷惑をかけてはいけないというのは本当か? 〜人は生きてるだけで大迷惑〜

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人間はそこに生きているだけで大迷惑だ。

他人に迷惑をかけてはいけないというのは本当か? 〜人は生きてるだけで大迷惑〜

・医師という職業
・「他人に迷惑をかけてはいけない」
・この世は大迷惑をかけ合う地獄
・ごく普通のただの人間

・医師という職業

医師という職業は心地よい。常に人間の正しさに向かって進むことをゆるされるからだ。病む人々を癒すこと、痛む人々を和らげること、死にそうな人々を生かそうと努めることを、決して悪だと攻め立てる人はいないだろう。

病気から解き放たれたい、痛みから逃れたい、死から免れたいというのは、人間の根源からの、健康な人々ならば誰もが抱く動物的な願いであり、誰もがそう願う限り、それが間違ったり悪であるということはありえない。ほとんどの場合、それは善だと見なされる。

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本当はそれだけの価値のないものを売りつけたり、あなたが欠落していると思い込ませたり、そのような虚偽を伴わなくても、ただひたすらに病気を癒すこと、死を免れることに向かっていけばよい。それは必ず、自分が儲けるためではなく、相手が健やかに人生を生きられるという願いが込められている。その意味で、とても神聖な気持ちで生きられると言えよう。

 

 

・「他人に迷惑をかけてはいけない」

「他人に迷惑をかけてはいけない」と言って人の行為を押さえつけようとする人々の姿を、しばしば世の中で目撃する。そのように”他人に”迷惑をかけてはいけないと言い放つことで、実はその発言主の、自分自身の妨げたいという強い願望に、あるかもわからない見知らぬ”他人の人々”の思いを上乗せさせて、その行為を阻止しようと企む節があるので、ひどく小賢しいようにも感じる。

「他人に迷惑をかけてはいけない」というのは、果たして本当なのだろうか。そのように人は、他人というものを常に意識して、自分自身を抑圧して生きなければならないのだろうか。

「他人に迷惑をかけてはいけない」と聞いてぼくが違和感を抱くのは、人間というものは常に他者にとって迷惑な存在にならざるを得ないのではないかと思っているからだ。他者の迷惑にならない人間なんて、この世にいるのだろうか。

例えばぼくが電車の席に座っていたとする。するとその席は占領され、ぼくがいなければ座れたはずの人がひとり座れずに立たなければならなくなる。ぼくはその人にとって大迷惑な存在だが、ぼくは大いに迷惑をかけているのにもかかわらず、何も感じずに平然と電車の席に座り続けてしまう。迷惑をかけたくないから電車で座らないという人など、滅多にいないだろう。

また、ぼくが夜のスーパーで最後にひとつだけ残った牛肉を買ったとする。その後にスーパーを訪れた牛肉が欲しかった人間にとっては、ぼくは大迷惑な存在だ。にもかかわらず、ぼくは悪びれもなく牛肉を買い上げる。早い者勝ちだし、他人の迷惑まで考えて、自分の食料を手に入れないことなどあり得ないと、誰もが思うだろう。

ぼくが受験で医学部に受かったならば、誰かがひとり医学部に落ちたのである。それはひとりの人の人生に多大に影響する大事件であり、ともすれば大罪とも思われる大迷惑だが、そのようなことに関して罪悪感に苛まれていては、健全にこの世の中を生きていくことはゆるされない。しかしぼくは競争という名の下、誰かの人生を潰し、迷惑をかけたかもしれないのだ。

人間たちは集団の中で互いに関わり合い、つながり合い、影響し合い、誰もが誰かの席を奪い取りながら生きている。それは潜在的なように見えても、誰もが動物的に狡猾に、自分の生きるためのスペースを誰かから奪い確保しているのだ。

「他人に迷惑をかけてはいけない」などと、自分は誰にも迷惑をかけていないという傲慢な顔つきを即座にやめ、自分も他人に大迷惑をかけながら生きてきたのだと深く認識するべきではあるまいか。

 

 

・この世は大迷惑をかけ合う地獄

人が迷惑をかけているのは何も人間だけではない。動物だってものすごく大迷惑なはずだ。

ぼくたちは牛肉を食べるが、自分が生きるために牛が殺され食べられるなんて、牛にとってなんて迷惑な話だろう。しかし牛だって草の命をむしゃむしゃと食べているのだから、仕方のないことだろうか。スーパーで既に死んだ死体を買い上げるからわかりにくいが、ぼくたちが牛肉を食べるために牛肉を買うということは、ぼくたちが牛を殺してしまっていることに等しい。

誰もが皆、自分が生きることの方が、牛が生きることよりも価値があるという傲慢な気持ちを持ち合わせているからこそ、牛の肉を食べることができるのだ。ぼくたちは皆、ひどく迷惑で傲慢でなければこの世を渡っていけない。本当に純粋な、牛を思いやる慈悲の心を持つ人がこの世にいたならば、その人は何も食べられずにすぐに死ぬだろう。これは牛に限らず、鳥にも、豚にも、魚にも、キャベツさんにもニンジンさんにも言えることだからだ。

上記の病院における倫理観から伺い知られるが、ぼくたち人間が、人間が病み死ぬことを絶対的な悪とし、逆に人間が生きるということを絶対的に肯定しているように、牛の世界では牛が死ぬことは絶対的な悪であり、牛が生き残ることは絶対的な善であるはずだ。ぼくたちは人間が生きるという自分たちの絶対的な善のため、牛の絶対的な善をないがしろにしてしまっているのだ。

この世界の生命は、なんて拮抗している定めだろう!そしてこの世界のすべての生命は、すべての生命に迷惑をかけながら生きている。すべては関わり合い、つながり合っている。この世の罪とはなんだろうか。生きている限り、世界のすべては罪を犯すものだ。誰もが地獄へ落ちるというのならば、そこは誰もが住む通常の浮世の姿だというのか。

牛の善をないがしろにする人々を救い出す、医師という職業は、人間にとっては果てしない善で、牛にとっては果てしない悪だろうか。この世の生きとし生けるものすべてにとっての善となる薬師如来の姿は、どのような姿だろうか。

 

 

・ごく普通のただの人間

「他人に迷惑をかけてはいけない」などと偉そうに言い放つ人間は、即刻ひどく他者に大迷惑をかけている自分自身を認識すべきであるし、逆に自分が他人に迷惑をかけてしまったと罪の意識に苛まれている純粋な魂の人々は、その洗脳から解き放たれなければならない。誰もが誰もに迷惑をかけており、迷惑をかけているあなたはごく普通のただの人間である。

 

 

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