人生が労働と消費を繰り返す消耗の輪廻だというのは本当か?

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果たしてぼくたちは稼ぐことと消費することの輪廻を人生の中で繰り返しながら、老いて死ぬだけの定めだろうか。

人生が労働と消費を繰り返す消耗の輪廻だというのは本当か?

・浮世の輪廻
・燃え盛る命
・解脱の光

・浮世の輪廻

ぼくたちは労働する。他人の役に立つことをするという労働に、人生の最も健やかで最もなんでもできる最も美しい時間を捧げ、その代わりに少しばかりの金銭を得て浮世の生活を続けていく。その金銭によって衣食住を賄う。

富める人々は他の者よりもより良質の衣食住を得られるということを誇りに思い、それを世の中で誇示しては心を満たしている。しかしそれらのすべての衣食住も、一生と一生をまたいでまで引き継いで持っていける者はいない。すべての高級な衣食住も、この一生限りのことである。死んでしまえば誰もがそれらを手放す。

ただこの一生限りの富を得ることに躍起になって、それを達成しては誇らしく思い、そしてその富を利用して文明の中で消費し、この世の経済は巡っていく。しかしどんなにこの世で富や物質を手に入れたところで、どうせ死にすべてを手放す運命にあるのに、一体それにどれほどの意味があるのだろうか。

今際の際(いまわのきわ)に思うのは、他人のために役立つという労働に人生の最も健やかな時間の大半を捧げ、自分のためにそして真理の追求のために人生の時間を費やすことを疎かにして、浮世の合理性の中でお金を得ることと消費することをただひたすらに繰り返し、人間の国家や地域という集団の発展のために知らず知らずのうちに個人という人生の時間を搾取され、全体ではなく部品として生き延び、そして自分の生きる意味を見失ってしまったことに対する悔やみの思いであるかもしれない。

ぼくたちはこの世に全体として生まれてくるにもかかわらず、いつの間に望みもしない集団という概念に生命を巻き取られ、消耗させられ消費させられ、最後には骨抜きにされてしまうのだろうか。

 

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・燃え盛る命

ただ単にその他の人間たちに倣うように、繰り返される人間の労働と消費。なにひとつ思考することなければ、その円環の中で消耗させられることにすら気づかずに、ぼんやりと生ぬるく生きていくことができるだろう。それでもその怪しさに気づいてしまった思考する者たちにとっては、その限りではない。

この世は思考しない者の方が生きやすい。思考しない者たちであふれる浮世では、それらの生命が見えない権力によって知らず知らずのうちに自然と絡め取られ都合のいい部品としてただ従順に消費させられ、思考しない人生たちはただ漠然と終わっていく。この世の怪しさに気づかない、思考しない人生はどれほど安らかで気楽だろうか。しかしその先には、空っぽの死が横たわっているだけだ。小賢しい権力たちが、愚鈍な民衆たちの生きるための時間を消費する。生命の消費。生命の消耗。ぼくたちは抗えないその流れにただただ従うだけでいいのだろうか。

鮭の生命たちも冷たい川の流れを遡上するのに、自分たちを鮭より賢いのだと思い込んでいる人間たちは遡ることすらなくただ流されてゆく。浅はかな人生が流れていく。そして広大な海へと消えていく。

中島みゆきの夜会「24時着0時発」に導かれ秋の北海道・知床半島へ鮭の遡上を見に行ってきた

この世の出来事を疑わずに生きられる生命は安らかだ。何も知らないことを知らないで生きることができる。この世の出来事を本当かと疑うなんて愚かだ。自らのうちに燃え盛るこの世を見透かす炎に巻き込まれ、命尽きるだろう。

 

 

・解脱の光

労働と生命の消費の輪廻の姿を見極めて、それを抜け出した先には旅の鏡がある。旅の鏡は映し出す。ぼくたち人間の、本来の生命の姿を。

本当は部品ではなく、全体だったあの頃へ。本当は消耗ではなく、育まれていく生命へ。

何もかもを失って旅に出ることは、まるで死ぬことに似ている。誰も死の先の世界まで、富を持ってはいけない、物質を持ってはいけない、人間を伴ってはいけない。誰ひとり死の先の世界の姿を、知る者はない。何もかもを失って旅立ちの後にめぐり会うのは、思いもよらない見知らぬ異界。死の先にあるのかもしれない世界。

円環を外れた先には、見知らぬ解脱の光がある。

 

生と死の旅立ち

 

 

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