日本人が英語を話せない根本的な理由とは?英語を流暢に話すことが恥ずかしいというのは本当か?

(この記事には広告が含まれる場合があります)

 

日本人が英語を話せない根本的な理由とは?英語を流暢に話すことが恥ずかしいというのは本当か?

・日本人は英語を話すのが苦手な民族
・日本人は心の底で、英語を流暢に話すことは恥ずかしいし馬鹿馬鹿しいと思っている
・日本人の英会話能力が向上しない根本的なひとつの原因
・英語を流暢に話すことは恥ずかしいというのは本当か?

・日本人は英語を話すのが苦手な民族

日本人は英語を話すのが苦手な民族である。中学高校大学と長い年月をかけて勉強してもあまり英語を喋れないというのは珍しいことなのかもしれない。高学歴の人々の間でも読むことや書くことは得意でも、会話が苦手だという例は多々見られる。しかし逆に言えば英語というよそ者の言語など使わなくても何不自由なく独自の文化的な生活を送れるという点では、英語が苦手なことは素晴らしいことなのかもしれない。

英語を話すことが苦手なので、多くの日本人は英語を流暢に話せる人に対してカッコいい、すごい、素晴らしいと強い憧れを抱く傾向にある。それだけならばとても単純な話だが、ぼくが日本人として生まれ育ってきた経験から言うと、日本人は英語に対してもっと複雑な感情を抱いているように感じられる。それは英語を喋ることがとてもカッコいいと思い込む一方で、それとは全く逆に、英語を流暢に喋るなんて恥ずかしいとやや見下しているという矛盾的感性だ。

 

 

・日本人は心の底で、英語を流暢に話すことは恥ずかしいし馬鹿馬鹿しいと思っている

例えば日本人しかいない空間で、英語の単語をめちゃくちゃ流暢に発音していたら、ふざけていると見なされて絶対に周りから馬鹿にされたりツッコまれたりすることだろう。オレンジのことをオゥリンジと発音していたり、アップルのことをアポゥと発音していたら、みんなから笑われることは目に見えている。それが正式な英語の発音であるにもかかわらず、正式な発音は日本人の間ではふざけていると見なされて、馬鹿にされ、ツッコまれる対象となるのだ。これこそまさに日本の摩訶不思議である。

またぼくはあまりテレビを見ないのでよくわからないが、「欧米か!」というツッコミも一時期流行したらしい。「欧米か!」というツッコミが成立しそれで笑いを共有できるということは、暗に「日本人のくせに欧米らしくふるまうなんて変だ」という思いが垣間見える。日本人にとって欧米らしくふるまうことはおかしいことであり、馬鹿らしいことであり、無様なことなのだ。まぁこれは「欧米か!」というのを、「アフリカか!」とか「中国か!」というツッコミに変えても通じるような気がするので、欧米らしくふるまうのはおかしいというわけではなく、日本人はただ日本人らしくふるまわなければならないのであり、無理して異国人の猿真似なんかするもんじゃないという不思議な日本人的感性が日本人の間だけで共有されているのだろう。

また幼い頃からアニメを見ていても、英語を流暢に喋るキャラクターというのはどこか浮いているような空気の読めない雰囲気を醸し出していた。クレヨンしんちゃんでいえば風間くん、ドラえもんでいえばスネ夫、ちびまる子ちゃんでいえば花輪くんは、流暢に英語を話して得意顔になっているものの周囲がそれに憧れるというよりはむしろいけ好かない奴、キザな奴、嫌味な奴、バカバカしい奴、日本人のクセにおかしな奴として描かれることが多かった。このどことなく排他的な空気は、日本人が日本人として日本に生まれ育たないとわからないような微弱で繊細な、それでいて根源的なものだろう。

大昔のクレヨンしんちゃんではよしなが先生が風間くんのことを「バタ臭い」と表現していた。ぼくはこの言葉の意味が全くわからなかったので調べてみると、「バタ臭い」とはバターのように臭いという意味で、西洋風もしくは西洋かぶれしているという意味らしい。「臭い」と言っていることからおそらく否定的な表現であり、差別につながるから最近は見かけないのだろうか。しかしちょっと前までは、このように西洋を見下す言葉が一般的に使われていたという事実も見逃せない。

 

 

・日本人の英会話能力が向上しない根本的なひとつの原因

しかしこの西洋らしくふるまうなんて馬鹿馬鹿しい、恥ずかしい、見下されるべきだという日本人の間にだけ密かに共有されている感性が、日本人の英語会話能力を向上させることを妨げている理由のひとつではないかとぼくは推測する。中学高校大学と、どんなに必死に英語を勉強していても、英語を流暢に話すなんてとても恥ずかしいことだという感性が精神の根底で発動する限り、その努力も報われにくいのではないだろうか。

ぼくが中学高校の学生時代を思い返してみても、英語の授業中みんなで教室の中で、外人が喋った流暢な英文の後に従ってrepeat after meの要領で、英語を西洋人らしく話すことがとても恥ずかしかったことが思い出される。そして教室内の誰もが外人の真似事をして英語を流暢に話すことなんてとても恥ずかしいし馬鹿馬鹿しいことだと思っていたから、誰も大きな声で英語を発音している人がいなかった。日本人の思春期の繊細な心理描写が垣間見られる思い出のように感じられるが、よくよく考えてみればこんなことでは英会話ができるようになるはずがない。

英語を西洋人のように流暢に話すなんて恥ずかしい、馬鹿馬鹿しい、日本人なのにどうして西洋人の真似事をしなければならないのだなどという潜在的な強い思いが、日本人の英会話の向上を妨げている最大の要因ではないだろうか。

 

 

・英語を流暢に話すことは恥ずかしいというのは本当か?

しかしそもそも日本人がみんなで共有している「英語を西洋人のように流暢に話すことは恥ずかしい」という感覚は本当のことなのだろうか。もちろん本当であるはずがない。そんなのただの思い込みに過ぎない。というか実際に外国で英語を喋る場面では、西洋人のように話さないと全く通じないことが多いので、自分の伝えたいことを伝えるために必死に西洋人の真似事をするしかない。「英語を西洋人のように流暢に話すことは恥ずかしい」などとのんきなことを言っていられるのは、日本人が日本国内という英語なんか全く使う必要がない環境でのんびりと生きているからという理由に過ぎない。

異国を旅してよくわかることは、「英語を西洋人のように流暢に話すことは恥ずかしい」などという思い込みの方がはるかに馬鹿馬鹿しいということだ。だってそんな思い込みに縛られて西洋人らしく英語を発音できなければ、自分が何を言いたいのかどうかさえ相手にわかってもらえず、自分の言いたいことが伝わらず、生きていくことさえままならないからだ。

会話というものは、自分の言いたいことが相手にはっきりと伝わってこそ成り立ちやすい。そのためには相手にきちんと理解してもらえる発音の英語を使うことが何よりも重要だ。orangeをオレンジ、appleをアップルと日本人らしく発音していては、異国では誰も理解してくれない。どんなに恥ずかしくても西洋人の猿真似をして、orangeをオゥリンジ、appleをアポゥと発音して自分が何を言っているのか相手にわからせることから、会話は始まる。

異国の旅においては、自分が生き残るために、そして快適に旅を続けるために、西洋人の猿真似をしながら英語を発音して流暢に会話を展開することが重要となってくる。それでも日本人の中には頑固にorangeをオレンジ、appleをアップルと言い続けている人もよく見かけるが、それはそれで異国で言葉が通じない楽しさがあっていいのかもしれない。しかしぼくはなるべく障害なく多くの人々と心を通わしながら旅を続けたいので、必要性を感じ自分の意思で世界中の人々にとって最良の英語の発音を追求していくのみである。

異国の真ん中に自分自身を旅立たせてしまえば、「英語を西洋人のように流暢に話すことは恥ずかしい」だなんて馬鹿馬鹿しくて言ってられない。日本人特有の「英語を西洋人のように流暢に話すことは恥ずかしい」という呪縛から逃れられる最も手っ取り早い方法は、自分の英語を通じさせなければ多くの困難がふりかかる環境へ、すなわち異国の旅の中へと自分自身を孤独に放り出してしまうことではないだろうか。その時あなたは必死に自分の英語を修正し、なるべく誰もが聞き取りやすい英語の発音へと自分自身で導いて行くことだろう。そしてきっとその発音は日本人英語の発音ではなく、ネイティブになるべく近しい発音となるに違いない。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

 

関連記事