名作「セーラームーンS」のあらすじと最終回考察!誰かを犠牲にしないと世界の平和を守れないというのは本当か?

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名作「セーラームーンS」のあらすじと最終回考察!誰かを犠牲にしないと世界の平和を守れないというのは本当か?

・「セーラームーンS」は深い哲学的テーマを投げかけるシリーズ最高傑作
・「セーラームーンS」のテーマは「誰かを犠牲にしなければ世界を守れないのか」
・セーラーウラヌスとネプチューン、そしてデス・バスターズについて
・「セーラームーンS」には正義VS悪では測れない、さらに深い「犠牲」の対立がある
・犠牲思想の対立はタリスマン出現前と後で2つに大きく分かれる
・土萠ほたるを犠牲にしないと世界を救えないというのは本当か?
・誰ひとり犠牲にしなくても世界を救えるというセーラームーンこそが正しかった
・ただひたすらに与え続けるセーラームーンと、奪うことに心を奪われたセーラーウラヌスたち
・トルストイ「人生論」と「セーラームーンS」に共通するただ与えるという感性
・人生は「セーラームーンS」の哲学に則り絶対的な自分自身を取り戻す旅
・「犠牲」に関する記事一覧
・セーラームーンのその他の記事一覧

・「セーラームーンS」は深い哲学的テーマを投げかけるシリーズ最高傑作

大人気アニメセーラームーンシリーズは、1年ごとに合計5つの物語として放送された。それはすなわち「セーラームーン」「セーラームーンR」「セーラームーンS」「セーラームーンSS」「セーラースターズ」である。

その中でもシリーズ全体を通して一貫した哲学的思想を含ませ、大人になってから見ても十分に見応えがあると感じさせる最高傑作は「セーラームーンS」だとぼくは感じる。

 

 

・「セーラームーンS」のテーマは「誰かを犠牲にしなければ世界を守れないのか」

「セーラームーンS」がその物語全体を通してぼくたちに問いかけていることは「誰かを犠牲にしなければ世界の平和を守れないというのは本当か?」ということだ。「セーラームーンS」のテーマはまさに「犠牲」なのだ。それは「セーラームーンS」全話を通して鑑賞した人なら誰でも抱く感想だろう。

このようにシリーズ全体を通して一貫したひとつの明確な問いかけを投げかけてくる物語は、「セーラームーンS」以外にないと思われる。「セーラームーン」は素晴らしい作品ではあるものの手探り状態で特にテーマを感じないし、「セーラームーンR」はそもそも魔界樹編とブラックムーン編の2つに分断されている。「セーラームーンSS」は夢を守ろうという簡素な子供向けのテーマにレベルを落とされているし、「セーラースターズ」にも特に哲学的意味は感じられない。

1年間を通してずっと哲学的な問いを投げかけ続け、大人になってからもたまにふり返ってしまう深遠な疑問を心に刻みつけた味わい深い傑作は「セーラームーンS」を置いて他にないと思われる。では「誰かを犠牲にしなければ世界の平和を守れないというのは本当か?」という壮大な問いかけに対する答えを、「セーラームーンS」の物語をふり返ることによって導き出していこう。

 

・セーラーウラヌスとネプチューン、そしてデス・バスターズについて

「セーラームーンS」には魅力的な2人の新しいセーラー戦士が登場する。美男子のような外見だがれっきとした女性である天王はるかが変身したセーラーウラヌスと、上品で気品あふれる大人びた雰囲気を持つ海王みちるが変身したセーラーネプチューンである。

2人は定められた人の「ピュアな心」の中に隠されている「タリスマン」を3つ探し出し、聖杯を出現させ、世界を救うという使命を担いながらいつも行動を共にして戦っている。同じセーラー戦士であるが、考え方が異なるという理由でセーラームーン、セーラーマーキュリー、セーラーマーズ、セーラージュピター、セーラーヴィーナスとは別行動を取っている。女性同士だがまるで愛し合っているかのような雰囲気を醸し出している。

一方で「セーラームーンS」の物語全体を通して悪役を担っているのが異次元宇宙から来た「デス・バスターズ」という悪の組織だ。デス・バスターズもセーラーウラヌスたちと同様、ピュアな心の中に隠されたタリスマンを探しており、3つのタリスマンを集めて聖杯を出現させることで、世界を破滅へ導こうと企んでいる。出現した聖杯を手にする者によって、聖杯が凄まじい善良な力を発揮するのか、強力な悪質の力を発揮するのかが異なってくるというのだった。

 

・「セーラームーンS」には正義VS悪では測れない、さらに深い「犠牲」の対立がある

このようにシンプルに考えれば”正義VS悪”すなわち”セーラー戦士VSデス・バスターズ”という構図で物語は展開して行くのだが、「セーラームーンS」の奥深いところはただ単にストーリーがそのような単純な”正義VS悪”の二項対立のみにとどまらないところだ。

「セーラームーンS」の物語の中にはもうひとつ対立する概念が存在し、実はそれこそが”正義VS悪”という子供でもわかる至極単純な構図よりもはるかに複雑さを帯びた難解なテーマとして、ぼくたちの心に迫ってくる。その対立とは「誰かを犠牲にしなければ世界を救うことはできない」と信じる者たちと「誰かを犠牲にしなくても世界を救うことができる」と信じる者たちの対立だ。

「誰かを犠牲にしなければ世界を救うことはできない」と物語全体を通して一貫して主張しているのが、セーラーウラヌスとセーラーネプチューンだ。一方で「誰かを犠牲にしなくても世界を救うことができる」と頑なに信じて戦っているのはセーラームーンを筆頭としたいつものセーラー戦士5人である。この極端な考え方の違いがあるからこそ、セーラーウラヌスたち2人はセーラームーンたち5人と共に協力して戦わないと言える。

第13話でセーラーウラヌスたちがセーラームーンにかけたセリフが、この思想を如実に表していて印象深い。そのセリフとは次のようなものだ。「人間って結局誰かを犠牲にして生きている、そう思わないか。友人の場合もあるだろうし、親の場合だってあるだろうさ。みんな、誰かを踏みつけにして生きてるんだ。」それに対してセーラームーンは次のように返答する。「でも、踏みつけている人たちはそれでいいかもしれないけど、踏みつけられてる人たちはどうなるの!犠牲になる人たちのことは考えなくてもいいの?!私は他の人たちが不幸になるのを見過ごして、自分だけ助かるなんてことなんてできないわ!1人じゃ無理かもしれないけど、みんなで力を合わせれば犠牲者なんか出さなくてもいい方法が見つけられるはずよ!」それに対してセーラーネプチューンは次のように返す。「あなたって、優しい子ね。」

果たしてどちらの意見が正しいのだろうか。「セーラームーンS」は単なる正義と悪の戦いにとどまらず、「誰かを犠牲にしなければ世界を救うことはできない」のか「誰かを犠牲にしなくても世界を救うことができる」のかという哲学的で解決困難な問題を主軸としながら物語が進められていく。とても子供向きとは思えない大作だ!

 

・犠牲思想の対立はタリスマン出現前と後で2つに大きく分かれる

「誰かを犠牲にしなければ世界を救うことはできない」のか「誰かを犠牲にしなくても世界を救うことができる」のかという哲学的問題も、「セーラームーンS」の中では大きく2つに分割されて思考されることとなる。それはすなわち、タリスマン出現前とタリスマン出現後である。

タリスマン出現前のセーラーウラヌスたちの主張はまとめるとこんな感じだ。「タリスマンが隠されたピュアな心の持ち主は、タリスマンを奪われたら死んでしまうだろう。しかしそれでもタリスマンを奪い取るべきだ。タリスマンの持ち主が死んでしまったとしてもそれによって世界全体が救われるのならば、タリスマンの持ち主1人死んでしまうくらいはやむを得ない。」

それに対してタリスマン出現前のセーラームーンたちの主張はこうだ。「誰かを犠牲にしなければ世界を救えないなんて、そんなのおかしい。タリスマンなんてなくたって、私が世界を救ってみせる。」

皆さんはどちらの意見が正しいと思うだろうか。ぼくたちは世知辛い人間社会を経験していると、何かを犠牲にしなければ何かを手に入れることはできないと考える人は意外と多いだろう。何ひとつさえ犠牲にもせず全てを手に入れようだなんて世間知らずの甘えた考え方だと感じる人々も多いに違いない。ぼくたちは人生経験が多ければ多いほど、社会経験が多ければ多いほどセーラーウラヌスたちの意見の方が正しいような感じがしてしまわないだろうか。そしてセーラームーンの主張は、現実的ではない浅はかな考え方で非論理的だと見なしてしまうのも無理はない。では結局物語はどのように進んだのだろうか。

結局タリスマンの持ち主は、なんとセーラーウラヌスとセーラーネプチューンだった!誰かを犠牲にして殺してしまったとしても手に入れたいと願っていたタリスマンの持ち主が、自分たち自身だったと知った時の衝撃は計り知れない。それでも世界を守るためだという理由で、セーラームーンたちに望みを託し2人とも死を覚悟でタリスマンを差し出す。

そこに「セーラームーンR」にも出てきたセーラープルートが登場し、彼女がもうひとつのタリスマンを持っていることを明かす。3つのタリスマンが集結したところで、タリスマンはピュアな心の結晶を放出し、肉体へと戻り、結局セーラーウラヌスもセーラーネプチューンも死ぬことはなかった。「真のタリスマンは犠牲者を出すことはなかった」という結論が、セーラー戦士全員の間で共有されることとなる。そして3つのタリスマン(ウラヌス=スペースソード、ネプチューン=ディープ・アクア・ミラー、プルート=ガーネットオーブ)によって聖杯は出現し、セーラームーンがそれを手にし、スーパーセーラームーンへと2段変身するのだった。

これは誰かを犠牲にしなくても世界を救えることを暗示するかのような物語の展開だった。

 

・土萠ほたるを犠牲にしないと世界を救えないというのは本当か?

しかしその後もなお、「犠牲」に関する哲学的対立は引き継がれていく。タリスマン出現後において引き起こされる対立は、滅びの戦士であるセーラーサターンが覚醒する前の「土萠ほたる」という少女を殺すか殺さないかということだ。

外部太陽系の戦士セーラーウラヌスとセーラーネプチューン、そしてセーラープルートは、世界を破滅から救うためにほたるちゃんを殺して世界全体の平和の犠牲になってもらうべきだと主張する。滅びの戦士であるセーラーサターンが目覚める時、彼女は世界を破滅へと導く宿命を担ってしまうからだ。一方でちびうさと友情を深めていたほたるちゃんが悪い子ではないことを知っているセーラームーンたちは、当然ほたるちゃんを殺すべきではない、ほたるちゃんの尊い命が世界全体の犠牲になるなんておかしいと主張し、再び思想的対立を深めていく。

結局ちびうさのピュアな心を覚醒エネルギーとしてほたるちゃんは覚醒したが、その覚醒の姿は滅びの戦士セーラーサターンではなく、デス・バスターズによって寄生された異次元生命体ミストレス9の姿だった。ほたるちゃんの肉体の中には、本来のほたるちゃんの意識と以前から寄生していたミストレス9の意識が拮抗し、覚醒の際にはほたるちゃんの意識が抑制されミストレス9の側面が出現していたのだった。

 

 

ミストレス9として覚醒したほたるちゃんの肉体の中で、まだほたるちゃんの本来の意識が微かに生きていることを感じ取ったセーラームーンは、セーラーウラヌスとセーラーネプチューンが徹底的に反対する前で、「ほたるちゃんは生きてる、生きてるのよ!何の罪もないほたるちゃんが死なないと世界が救えないなんて、そんなこと、絶対にない!」と決意し所持していた聖杯を差し出してしまう。しかしほたるちゃんの肉体はなおミストレス9の意識に支配されており、デス・バスターズに聖杯を明け渡してしまう結果となり、聖杯の力によって沈黙の支配者ファラオ90を異次元から呼び込んでしまう。

 

 

地球へとたどり着いたファラオ90は荒れ狂い世界は破滅へと向かっていくが、ほたるちゃんの肉体の中で、ほたるちゃんの大切な人を守りたいという気持ちがミストレス9の意識に勝利し、ほたるちゃんの本来の意識がその肉体からミストレス9を除去してしまう。ほたるちゃんの意識がほたるちゃんの肉体を取り戻すと、滅びの戦士セーラーサターンとして復活し、この世界を滅ぼすのではなく、世界を破滅から守るためファラオ90を滅ぼすという方向で破壊は進んでいく。聖杯を失い、スーパーセーラームーンにすらなれないセーラームーンを置き去りにして、セーラームーンが止めるのも聞かずに、セーラーサターンはひとりファラオ90の中心部へと入り込み、ファラオ90を一気に消滅させ、それと同時に自らも消滅することを覚悟する。

 

しかし誰も死なせたくない、誰も犠牲にしたくない、ほたるちゃんを失いたくないと心から強く願ったセーラームーンは、聖杯の力なしの自力でスーパーセーラームーンへと変身し、ファラオ90の中からほたるちゃんを救い出した。ファラオ90を滅ぼし、自らも消滅するはずだったセーラーサターンは、輪廻転生を果たし、赤ん坊の姿としてセーラームーンの懐に抱かれていた。結局誰も犠牲にせずに世界を救い出す、みんなが探し求めていた本当のメシア(救世主)はセーラームーンだったのだ。

 

・誰ひとり犠牲にしなくても世界を救えるというセーラームーンこそが正しかった

「セーラームーンS」の物語は、ぼくたちに何を伝えようとしているのだろうか。結局「セーラームーンS」の中では、誰ひとり犠牲にすることなく世界を救うことができたという点で、セーラ−ウラヌスたちの主張よりも、セーラームーンの主張の方が正しかったということになる。誰も犠牲にしなくても、誰も死ななくても、世界を救うことができるし、世界を平和へと導くことができる。誰かの幸福は、誰かの不幸の犠牲によって成り立っているわけではないのだ。

しかしそれはアニメの中だからこそ成立する都合のよい物語だろうか。大人になって現実世界や人間社会を生きるぼくたちにとって、「誰も犠牲にしなくても世界を救える」というのはただの世間知らずの綺麗事として空虚に響いてくるだけの可能性も高いだろう。しかし「セーラームーンS」の物語は堂々とその全体を貫き通して、セーラームーンの方が正しかった、セーラーウラヌスとネプチューンの犠牲の思想は間違いだという思いが見ている者の胸に迫ってくるようでもある。

一見現実的で正しそうに聞こえるウラヌスたちの犠牲の思想は、どう間違っていたというのだろうか。それを読み解くことによってのみ、「セーラームーンS」の物語が投げかける犠牲に関する哲学的テーマを自分自身の人生へと当てはめ、生きていく貴重な糧とすることが可能なのではないだろうか。

 

・ただひたすらに与え続けるセーラームーンと、奪うことに心を奪われたセーラーウラヌスたち

「誰かを犠牲にしなければ世界を平和にできない」と現実的な諦めの中主張するセーラーウラヌスたちと、「誰も犠牲にしなくても世界を救える」と固く信じていたセーラームーンとの間には、どのような精神的違いがあったのだろうか。ぼくが「セーラームーンS」全体を見つめて感じることは、セーラームーンがただ「与える」ということによってのみ世界を救おうとしたのに対して、セーラーウラヌスたちは「奪い取る」ことによって世界を救おうとしたという、かなり大きな違いがあったのではないかということだ。

セーラーウラヌスたちは世界を救うという使命感に燃えるあまり、敵からタリスマンを奪い取りさらにはその人の命さえ奪い取ることも仕方ないと考えていた。またほたるちゃんの命を奪い取ることによってのみ、世界の平和は訪れると盲目的に信じ込んでいた。その一方でセーラームーンはただ与えよう、守ろうとする姿勢にのみ専念し、世界の平和のためといえども決して何ひとつ奪おうとは考えもしなかった。あの大切な聖杯でさえ、ほたるちゃんの命のためならば差し出して与えることを惜しまなかった。このひたすらに「与える」ことで平和をもたらそうとする姿勢と、「奪い取る」ことで平和を維持しようとする姿勢の違いが、実は犠牲思想のズレの根本的な原因だったのではないだろうか。

セーラーウラヌスたちの精神は、相対的な世界に住んでいた。何かを受け取るためならば、代わりに何かを喪失しなければならないと信じていた。世界から何かを奪うからこそ、世界に何かをもたらすことができると信じずにはいられなかった。だから犠牲の発想が頭から離れず、心は迷妄の世界をさまよい、犠牲によって奪い取ることで生み出す平和という考えに固執してしまった。一方でセーラームーンの精神は、絶対的な世界に住んでいた。与えられたから与えようと考えるわけではなかった。与えたなら何かを返してもらわないと気が済まないこともなかった。セーラームーンは絶対的な精神の中で、ただ一方通行で、ひたすらに与えっぱなしだったのだ。だから迷うこともなく、心が揺れ動くことなく、まっすぐに平和を追求することができた。その結果として、ひたすらに与えることの結果として、誰も犠牲にしない平和を手にすることができたのではないだろうか。

 

 

・トルストイ「人生論」と「セーラームーンS」に共通するただ与えるという感性

「セーラームーンS」を見ていると、ロシア人作家トルストイの「人生論」を思う出す。トルストイは人間が幸福を手に入れるための唯一の行動は、ただひたすらに与え、ひたすらに愛することだと主張した。

人間たちは与えられることばかりを望んで、愛されることばかりをせがんで、お互いがお互いに奪い合うことにより、逆に幸福からはるか遠ざかっていることに気づいていない。確かに与えれば喪失し、与えられれば獲得すると思い込んでしまう人の世の中で、ただひたすらに与えるという損であるかのような行動を起こすことは難しい。

しかし自分が真の幸福に満たされ、世界が幸福を獲得する唯一の行動は、見返りを求めずに与え、愛し続けることだとトルストイは「人生論」を通して一貫して主張し続ける。愛は損得勘定という浅はかな観念を持たない、利害など超越した絶対的な浄土だったのだ。誰もが与えることを恐れず、誰もが愛することによってのみ、世界には平和が訪れる。

セーラームーンのただ与える、ただ愛するという絶対的な態度を見ていると、奪ったり奪われたりする相対的な人間の世の中に立ち向かい、ただひたすらに与えることを主張したトルストイの姿と重なるような思いがする。そして「セーラームーンS」の物語はその全体を通して、誰も犠牲にしない世界、ただ愛し与えるだけの世界の到来を待ち望んでいるかのような切なる願いを感じ取ることができる。

 

・人生は「セーラームーンS」の哲学に則り絶対的な自分自身を取り戻す旅

この相対的な人の世の中において、誰かが幸福になるために自分の幸福が犠牲になったという人も存在するだろう。そのような人たちにとってはセーラームーンの誰も犠牲にしない世界なんて綺麗事で、非現実的だと退けてしまいたくなるかもしれない。子供向け番組だから倫理観を育てるために、ありもしない理想的な思想を吹き込んだだけだと感じる人もいるだろう。しかし子供時代に「セーラームーンS」を見たぼくの心の中からは、大人になっても「セーラームーンS」が物語全体を通して伝えてくれた犠牲のない世界の精神を、どうしても忘れることができない。

それは犠牲のない絶対的な精神が、子供たちにとっては当たり前の美しい風景だったからではないだろうか。子供たちは誰もが万能感を抱きながら、絶対的な世界に身を置いている。しかし人間の世の中において次第に比較され、数値化され、相対化することによって絶対的存在から相対的存在へと精神を改造させられる。そして誰かの幸福を犠牲にしなければ自分の幸福は確保できないのだと洗脳され、競争させられ、争い合い、奪い合う。そんな相対的な世界の中に、幸福の花が咲くわけもないことも忘れて。

比較し、相対化され、自らの幸福を踏みにじられたぼくたちの魂が帰り着く場所は、まさに子供時代の絶対的な世界、「セーラームーンS」のただ与え、ただ愛するという美しく素晴らしい世界なのではないだろうか。大人になってからその世界へと帰りつくべき時が訪れると、子供時代に直感的に感じ取っていたからこそ、「セーラームーンS」の犠牲の哲学的思想はぼくの胸の中で長い間消えることなく残され続けていたのかもしれない。

 

 

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