お葬式が人間にとって特別な理由とは?ぼくたちは自分自身を理解できているというのは本当か?

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お葬式って他のイベントとは全く違う雰囲気に包まれる!!!!!

お葬式が人間にとって特別な理由とは?ぼくたちは自分自身を理解できているというのは本当か?

・他のイベントにはないお葬式の独特な雰囲気
・お葬式に漂う「わからない」という気持ち
・自分自身が不思議な魂の旅人だと忘れてしまった人々
・中島みゆき「慕情」
・取り戻す魂の旅人の感性
・ぼくたちはどこから来て、どこへ行くのか

・他のイベントにはないお葬式の独特な雰囲気

ぼくたちは人として生きているとお誕生日会やクリスマス会、結婚式など様々なイベントに参加する機会に恵まれる。しかしそんな人生のイベントの中でもお葬式ほど異様な雰囲気に包まれている独特な儀式を、ぼくは他に知らない。死んだ人とお別れするというお葬式は、他の人生のイベントと比べて何がどう異なるのだろうか。

愛する家族や大切な人と別れるということは、もちろん悲しく辛い。死んでしまってはもはやこれまでのように語り合ったり、笑い合ったり、助け合ったりできなくなるという点において、死という出来事は人と人の縁を無理矢理にでも引き裂く無慈悲な運命だと言うこともできるだろう。しかしお葬式に漂う独特で神秘的な雰囲気は、死んだ人との別れが悲しいという単純な話では片付けられないように思う。

 

 

・お葬式に漂う「わからない」という気持ち

突き詰めて考えるとぼくが思うにお葬式において人々の心の中に去来し生じるのは、寂しさや悲しみというよりもむしろ「わからなさ」ではないだろうか。お葬式においては誰もが壮大な「わからなさ」に直面することになる。それは死んだら人はどうなるのか誰にも「わからない」という、どうしようもなく不安な気持ちだ。

ぼくたちは確かにこの人生の中で倶(とも)に生きたのに、死んでしまったあの人が一体どこに行くのか、誰も説明ができない。ぼくたちは確かに倶に生きたのに、あの人がこの先旅立ってどこへ行くのか全く見当も付かないのだ。ぼくたちは倶に生きて分かり合えたと思っていたのに、あの人のことを何ひとつ知らなかったようだ。

お葬式でお経を唱えてくれた仏教の僧侶は死者の魂は49日間の修行に出たのだと説くが、それが本当か嘘か誰も確かめられない。このようにして魂の旅路について思いを馳せる時、そういえば死んでしまったあの人のことばかりではなく、自分についても何も知らなかった自分自身に気が付く。ぼくは一体、死んだらどうなってしまうのだろう。

さらに魂の旅路を突き詰めれば、ぼくは死んだらどこへ行くのかということだけではなく、生まれる前でさえもどこから来たのか忘れてしまったことを思い出す。ぼくたちは自分自身を理解したような顔をして人間社会を突き進んでいるけれど、実際は自分がどこから来てどこへ行くのか何も知らない。自分が自分のことを何も知らなかったことを再び思い出させてくれる、自分で自分の魂の不思議さに気付かされてしまう、お葬式とはそんな絶好の機会だ。

 

・自分自身が不思議な魂の旅人だと忘れてしまった人々

ぼくたちは幼い頃は考えていた。自分がどこから来て、どこへ行くのか。しかしいつしかそんなことを不思議に思う気持ちを失くしてしまった。ぼくたちは年齢を重ねて大人になる度に、自分自身の生命の神秘や魂の旅路の不思議について考えることが少なくなり、いかにして上手に人間社会を世渡りしようかその方法ばかりを詮索するようになった。そして自分自身を不思議に思う気持ちよりも、自分自身を理解したという傲慢な思い上がりの気持ちが強くなった。

学校で優劣を付けられて、自分が出来るのか不出来かを理解した。社会では年収を数えられ、自分が優秀がそうでないかを理解した。生殖の快楽の頻度を確かめては、自分がモテるかそうでないかを理解した。そのようにして自分自身を総合的に評価して、これからをどのように生きていくべきか、どのように生きれば都合よく生き残れるかを模索した。

人間の人生は、基本的には模倣だった。親やご先祖様がやってきたように、自分自身を当てはめればよかった。勉強をして、就職をして、労働して、収入を得て、結婚して、生殖して、子育てをして、老いて死ぬというレールに従えばよかった。そのレールに乗ることができればひとまずは安心だと、他の人と異なる恐ろしい人生にならずに済むと、そのレールに乗ることだけに必死になって、楽に安らかに生きられる世渡りだけを追求した。そのようにして都合のいい部品として人間社会にはめ込まれた時にはもう既に忘れてしまう。自分自身がどこから来て、どこへ行くのかわからない不思議な存在であるということを。

 

 

・中島みゆき「慕情」

海から生まれてきた
それは知ってるのに
どこへ流れ着くのかを
知らなくて怯えた

生き残る歳月 ひとりで歩けるかな
生き残らない歳月 ひとりで歩けるかな

限りない愚かさ 限りない慕情

 

・取り戻す魂の旅人の感性

しかしどんなに避けようと努力しても、人が魂の問題から目を背けることはできない。みんなと同じレールに乗ることに躍起になって、お金を稼ぐことや子孫を残すことに成功したとしても、そのような動物的な次元とは全く別のステージで、ぼくたちがやがてこの肉体を離れざるを得ない神秘的な存在であるという事実に直面する運命をいつだって背負っている。

人間社会の部品になり切ってしまえばぼくたちは相対的な価値観によって評価され、自分自身を理解したような気分になれるだろう。しかし自分が集団の部品や一部ではなく、壮大で孤独な魂の旅人であることを思い出した時、ぼくたち自身が理解も解釈もできない不思議な彷徨い人であるという感覚を取り戻す。

 

 

・ぼくたちはどこから来て、どこへ行くのか

お葬式で他者の魂が旅立つのを見る時、ぼくたちの心の瞳は他者の魂だけではなく自分の魂にも焦点を当て、自分自身もやがてあのように旅立ちの飛翔を果たすのだという運命を再認識する。

自分自身が魂の旅人であるということを、忘れてしまった方が穢れたこの世は生き易い。ただひたすらに他人の真似をして他人に倣って、魂の問題など忘れ去りこの世の部品として思考を失くしたように生きた方が安らかな心を得られ易い。けれどこの一生で傷付かなかった分は、魂の迷妄としてやがて自分自身に返るだろう。

自分自身が不思議だと、逆らうように生きる一生は冷たい。自分自身の神秘に、立ち向かうように生き抜く魂は孤独だ。しかしそのようにしか生きられないという運命が、あらかじめ決められているというならば、誰にも語らずに誰にもふり向かずに、ただひたすらに打ち砕かれない金剛石の光だけを頼りに歩もう。ぼくたちはどこから来て、どこへ行くのかと、魂の旅路を焼き尽くすほどに見つめながら。

 

 

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