悪人は地獄へ落ちるというのは本当か? 〜悪人正機という思想〜

 

悪人は地獄へ落ちるというのは本当か?

・悪人は地獄へ落ちる
・誰も罪人
・「悪人正機」という考え方
・悪人にならざるを得なかった者たちへ
・自作詩「悪魔の葬式」

・悪人は地獄へ落ちる

幼い頃、おばあちゃんに教えられませんでしたか?悪いことをしたら極楽へ行けないよと。小さくささやかな罪を犯したとき、お母さんに言われませんでしたか?悪いことをすれば地獄へ落ちるよと。

恐ろしくありませんでしたか。怯えませんでしたか。絶望しませんでしたか。死んだ後に極楽へと行けないこと。生きるのを終えた後に地獄へと落ちること。

針の山や、血の海や、鬼の待つ河原。テレビや絵本がぼくたちに見せつける地獄の姿は、えも言われぬおぞましさに満ちていた。火炎の地獄や、切り刻まれる地獄や、殺し合う地獄。人々が語り継ぐ地獄の姿は、まさにこの世のものとは思えないほどに残酷だった。

罪を犯さずに生きていこうと誓いましたか。幼く小さな胸の中で。けれどふと疑問に思いませんでしたか。果たして罪を犯さずに容易く生きられるほど、この世は単純にできているのかと。

嘘をつくこと、ものを盗むこと、人を傷つけること、命を殺すこと。人は生きていく度に、いろいろな微小な罪を積み重ねていく。罠にはめること、掌を返すこと、他人を心で蔑むこと、自らを頑なに護ること。時が経つにつれて罪は肥大化し、複雑化する。ぼくたちは罪に絡まり、抜け出せなくなる。

どうしようもない罪があった。仕方のない罪があった。純粋に生きようとすればするほど、ぼくたちは生きるという樹木に、罪という蔦草を絡ませるしかなくなった。自らに対して美しく生きようとすればするほど、罪は深まる。この世の真理に向けて旅立とうと足を進めれば進めるほど、罪に塞がれる。

どれが罪だと言うのだろう。何が罪だと言うのだろう。人間たちのこの世で言い放つ罪がすべて罪だろうか。それは人間たちの都合のいいように捻じ曲げられてはいないか。純粋な命の炎を燃え上がらせている美しい魂に携わるものでさえ、確かな罪と言えるのだろうか。運命に翻弄され、どうしようもない罪の水に注がれるものにさえ、悪人だと指さすことができるだろうか。

 

 

・誰も罪人

誰もがこの世で深い罪を犯しながら生きている。誰もがこの世で深い悲しみを抱いている。この世の中で、誰が罪人に非ずして生きていることができるのだろうか。

例えば人が生きているということは、なにかを食べているということだ。食べるということはよくよく考えてみれば、果てしなく罪深い行為だ。ぼくたちは他の命を残酷にも殺している。直接的ではなくても、間接的にこの手は大量の血に染められていることだろう。牛を殺すし、鶏も殺す、数知れない植物の命さえ奪ってきたことだろう。ぼくたちは生きている以上、殺すし、奪っている。それというのも、その命を殺生してしまうことと、自分の命を生きながらえさせることを天秤にかけて、自分の命を生きながらえさせることの方が、その命を殺してしまうことよりも、この世では適切であると残酷にも心の中で裁きを下しているからこそ、ぼくたちは食事をすることができるのだ。ぼくたちは食事の度に、自分が生きるために殺すという選択肢を選んでいる。これが罪悪でなくて何であるというのか。

しかし人間は言うだろう。自らの行為を合理化させるために。「生きるためだから仕方がない」「みんながしていることだからまったく罪ではない」と。本当は何か心の片隅に違和感を感じていたとしても。

誰もが嘘をついている。誰もがものを盗んでいる。誰もが殺している。心の奥底で深い悲しみを抱いて。この世の中で、いったい誰が過ちを持たずに生きられるというのか。

 

・「悪人正機」という考え方

誰もが罪人のこの世界では、誰もが地獄へと赴くのであろうか。少し思考すれば導きだされそうなこの疑問に、日本の仏教は歴史上でひとつの答えを用意してくれている。「悪人正機」という考え方がそれである。

「悪人正機」とは浄土真宗の親鸞が導き出したものとされ、悪人こそが救われるのだという思想である。悪人でも救われるのだ、というわけではなく、悪人こそが救われるのだというその観点に、奥深さを感じずにはいられない。混乱する当時の世の中においては、罪を犯さずには生きられない人も多く、たくさんの人々が罪の意識に苛まれながら、このような自分自身は決して極楽へ行くことはできない、絶対におそろしい地獄へと落ちていくだろうと思い悩んでいたという。親鸞のもとに集まってきた人々の中には、一般の庶民はもちろんのこと遊女や盗賊などもいたという話だ。そのような混迷の時代において、「悪人正機」という考え方が人々の心に光を与えた。

 

 

・悪人にならざるを得なかった者たちへ

どのような時代においても、どのような国においても、人々はみな悪人だということができるだろう。ただその意識に、目覚めるか目覚めないかの違いである。そして人生や生命を純粋に生き抜く人であればあるほど、この世の真理に向かって突き進む澄明な精神を持てば持つほど、その意識に目覚める機会は多くなり、そして悪人である自らに苛まれ生きることに苦しむのである。そのような魂にとって、この世はさながら“地獄”であろう。しかし、その地獄へと「悪人正機」は一筋の光を与える。悪人こそが、この世で救われるのだと。

人間は自分の選んだままに、生命を生きることは不可能だ。生まれながらに決められた遺伝や周囲の環境、またはめまぐるしく移り変わる時代の変化、他人の悪意、それらをひっくるめてどうしようもない「運命」に大きく翻弄されながら、ぼくたちは無力さの中で生きていくしかない。人の命はまるで、根を持たない浮き草のような存在である。たまに自分自身で選択しているような気がしていても、それはただ、なにか大きな力によって選択サセラレテイルだけかもしれないのだ。そのようなことをなんとなく感じるとき、日本の仏教でいうところの「他力」というものの存在を大きく感じることになるだろう。

自分自身ではどうしようもない運命に翻弄されながら、どうしようもない罪を深めてゆくぼくたち。美しく生きようとすればするほどに、どうしようもなく罪は深まる。しかしそのようにして、まるで不動明王のお顔のように、必死にこの世を生き抜こうとしているぼくたち罪人に対して、「悪人正機」から来る仏教の慈悲は、知らず知らずのうちに降り注がれている。

人間がいうところの都合のいい罪など取るに足らない。誰かを傷つけたいだけの罪などいらない。自らを島とし、自らを頼りとして、法を島とし、法を頼りとして、ぼくたちはこの運命を乗り越えてゆこう。

 

 

・自作詩「悪魔の葬式」

 

天使と悪魔が戦って
悪魔が死んだ
正義と悪が戦って
正義が勝利した

人々は喜びに打ちひしがれ
祝杯をあげた
誰もが天使を讃えることをやめず
天国が訪れたような心地がした

悪魔の死体を荒野の真ん中に
置き去りにしたまま
振り向きもされずに
死体は腐敗を始めた

ぼくは無秩序へと傾き出した
死体を抱き寄せて
少しだけ頭を撫でた後
誰も訪れない葬式の準備を始める

汚い奴だと 罵られてきたね
死ぬべき奴だと 蔑まれてきたね
生きるのは寒かったろう
消えられないのはつらかったろう

悪魔だと決めつけられた
おまえの言葉は人にとっての悪だった
悪魔だと決めつけられた
おまえの心は人にとっての害だった

おまえの言葉の澄んだ受容体を
人は持てない
お前の心を純粋に映す瞳を
人は落とした

おまえの言葉を聞きたかった
罵られ続けて閉ざされた口の奥には
本当はどんな祈りが
眠っていたというのだろう

おまえの心を知りたかった
蔑まれ続けて疑いが左右の肺を満たしたその間に
本当はどんな願いが
循環を促していたというのだろう

おまえが負けたのを誰もが喜んだ
おまえが死んだのを誰もが喜んだ
誰かが死んだのを喜ぶ場合もあるということを教えたおまえが
本当の悪魔の在り処を指し示す

生きるのは寒かったろう
消えられないのはつらかったろう
腐敗した死体を抱き寄せて汚れたぼくの服は
おまえの祈りの匂いがした

 

 

 

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