親の死に目に会うよりもはるかに大切なことがある!!!!!
臨終の際にそばにいるよりも大切なこととは?親の死に目に会えないというのが親不孝だというのは本当か?
・「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」という迷信の意味と目的
・「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」という迷信は現代生活にそぐわない
・親の死に目に会えないというのが親不孝だというのは本当か?
・親の死に目に会うよりもはるかに大切なこと
目次
・「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」という迷信の意味と目的
日本には様々な言い伝えや諺、迷信が存在する。その中には「食べてすぐに寝ると牛になる」「夜に口笛を吹くと蛇が出る」「霊柩車を見たら親指を隠さなければならない」など、なぜそうしなければならないのか、一体どういう関連性があるのか理解不能なことも多く、「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」というのも有名で不思議な迷信のひとつだ。
一体なぜ夜に爪を切ると親の死に目に会えないのか、それは本当なのか嘘なのか、なぜこのような古代日本において迷信が成立したのか、もしかしたらインターネットで検索すれば簡単にその答えが見つかるのかもしれないが、ぼくはそこまで興味がないので調べはしない。しかしこの迷信が言いたいことが何なのかはしっかりと把握することができる。この迷信はぼくたちに、夜に爪を切るなよと忠告しているのだ。
子供にとって親の死に目に会えないということは親不孝でよくないことだという常識が、この迷信には前提として君臨している。そして当然このようなひどい親不孝を起こしてはならないので、夜に爪を切ることはよくないことだとこの迷信はぼくたちに訴えかけてくる。
・「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」という迷信は現代生活にそぐわない
なぜ昔の日本では夜に爪を切らない方がよかったのだろうか。このような有名な迷信が成立したくらいだから、何かしら夜に爪を切るべきではない理由がしっかりとあったに違いない。もしかしたら昔の日本の夜は暗かったので、夜に爪を切ると指を怪我したりして危なかったとかいうそういう単純な理由からだろうか。
しかしこの迷信ほど現代にそぐわないものはない。もはや日本は立派な先進国となり24時間電気を使い放題なのだから、夜が暗いなんてことはあり得ないからだ。今となってはたとえ夜であっても明るい部屋の中、ぼくたちは怪我をすることなく安心して爪を切ることができる。
しかも現代人は労働でとても忙しいのだから、朝や昼間などに爪を切っている暇などないだろう。爪を切るならば全ての仕事や用事の終わった夜が好ましいことが多く、そのような観点から言ってもこのような時代遅れの迷信で今を生きる人々の心を無意味に責め立てる必要などないのではないかと思われる。
・親の死に目に会えないというのが親不孝だというのは本当か?
さらにぼくが気に入らないのは「親の死に目に会えない」ということが非常に悪いこと、よくないこと、ひどい親不孝であるようにこの迷信の中で語られているという点だ。本当に子供にとって、親の死に目に会えないということはそんなにひどい親不孝なのだろうか。
家族に見守られながら安らかに死ぬことが人間にとって理想的な最期であるというのが世間では一般的な常識になっているが、ぼくは決してそうは思わないということを以前ブログ記事でまとめたが、その意見は今も変わらない。死というのは究極的に個人的なこの世からの旅立ちであり、その神聖な旅立ちの際に周囲に誰がいようが何をしていようが、自分自身の死には一切関係がないと思われるからだ。大体死ぬ間際というのは当人だって何が起こっているのかわからなくて必死だし、意識だって無に近い状態で朦朧としているに決まっているのに、そんな時に周囲に愛する家族がいようが別れを告げていようが無意味だし何ひとつ理解できないに違いない。
世間では大切な人の臨終、今際の際(いまわのきわ)にすぐそばにいるということがやたらと重要視されるが、本当に死にゆく人のそばにいること、死の瞬間に間に合うということがそんなに大切なことなのだろうか。そのような常識が、大切な人の死の瞬間に間に合わなかった人々やそばにいなかった人々の心をむやみやたらと無遠慮に苦しめているような気がしてならない。
・親の死に目に会うよりもはるかに大切なこと
ぼくの意見はこうだ。たとえそれが大切な人であろうとも、死にゆく人のそばにいるということは全く重要ではないし、そんなことは大したことではない。もちろん死の瞬間にそばにいなかったとしても、それが不孝になるということも決してないだろう。それよりもはるかに重要で大切なことは、意識も混濁して何もわからなくなっている死の瞬間なんかよりも、もっと元気で意思疎通がしっかり取れる健康な状態の頃からなるべくその大切な人のそばにいて、共に(俱に)時間を過ごし楽しい思い出を作ることではないだろうか。
その人を大切だと心から感じ、次々に忙しく移り変わる人生の波の中にあっても、可能な限りその人のそばにいられたという思い出があるならば、そしてその人とささやかながらも素晴らしい時間を共有したという記憶が心に刻まれているならば、その人と自分自身との関係性の中でこれ以上に重要なことは他にないだろう。人間の関係にとって本当に大切なことは向き合える時に向き合い、語り合える時に語り合い、笑い合える時に笑い合い、触れ合える時に触れ合ったという、輝く生命の中における血の通った交流であり、肉体が死にかけた際にそばにいるということでは決してない。
逆に言えばお互いの生命が輝く健やかな時代に悔いのないほどにそばにいて、もしくは心を通わせ合った思い出が心に深く刻み込まれているのなら、たとえ何かの事情があって今際の際にそばにいられなかったとしても、そんなことは大したことではないと悟ることができるだろう。もっと大切なことが、もっと価値のあるものが、心の中にしっかりと宿っているのだから、「親の死に目に会えないことは親不孝だ」などという人々を苦しめるだけの意味のない常識から、自分自身が傷付けられることをしっかりと守ることができる。
人の世は呪われており、ぼくたちを傷付ける常識や習わしは無数にある。しかしぼくたちはぼくたちの生命を清らかに護るために、ぼくたちを傷付けるもの、憎しみに満たされたもの、悪意に支配されたものを打ち砕く準備を常に怠ってはならない。