他人の役に立ちたいと願うのは素晴らしいことだというのは本当か?

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他人の役に立ちたいと願うのは素晴らしいことだというのは本当か?

・他人の役に立ちたいと願うのは素晴らしいことだというのは本当か?
・ぼくの思い描く理想的な生き方
・集中すると人は他人を見失うことができる
・「他人の役に立ちたい」と言う人は必死に人生を生き抜いていない
・中島みゆき「PAIN」
・真実の「他人の役に立ちたい」の正体

・他人の役に立ちたいと願うのは素晴らしいことだというのは本当か?

ぼくたちが暮らしている人間社会では、他人の役に立ちたいという人を称賛する傾向にある。「将来他人の役に立つような仕事がしたい」と言っている子供を、素晴らしいと褒め称えない大人はいないだろう。入学や入社の面談などでも「人の役に立つことが大好き」などと言えば、当たり障りがない模範的な人間であるという印象を与えるに違いない。

ぼくたち人間がその一生の時間のほとんどを費やす”労働”という行為が、そもそも他人の役に立つことをしてお金をもらい、自らの生活を成り立たせることへと繋がっていくので、経済を潤滑に回していき資本社会の中で国家を繫栄させるという点においても、「他人の役に立ちたい」という人間の気持ちは根本的に必要不可欠で重要な要素となっているのだろう。

ぼくも人間としてこの人生を生きていく中で、何度もこの「他人の役に立ちたい」という言葉に巡り会ったし、そのように願うことが人間の理想的な生き様なのだと理解してきたが、ぼくにはどうしてもこの「他人の役に立ちたい」という言葉に違和感があった。

本当に「他人の役に立ちたい」とか「多くの人の役に立ちたい」と心から願っている人なんてこの世にいるのだろうか。みんなそう言えばまともな人間に見られるし受けがいいから、世渡りとしてその場限りで何も深く考えないでそのように適当に言い放っているだけで、本心は別のところにあるのではないだろうか。

 

 

・ぼくの思い描く理想的な生き方

そもそもこの「他人の役に立ちたい」という考え方自体が、ぼくの思い描く理想的な生き方に全くそぐわない。ぼくが大切にしてきた重要だと思う生き方は、少年のようにもしくは野生動物のように、直感に従って必死に真剣に生き抜くということだ。それは別に必死に真剣に生きたいと端から願っていたというわけでは全くなく、必死に真剣に生きざるを得ないような宿命を背負わされたと言った方が正しいのかもしれない。別に必死に真剣に生き抜かなくてもいいような宿命や感性を享受している人々もきっと多くいるだろうが、そのような人のことは知らないのでここではぼくの宿命と感性の中のぼくの意見を述べていく。

 

・集中すると人は他人を見失うことができる

必死に真剣に人生を生き抜く時、人はどうなるのだろうか。それは人生というものに、そして自分というものに対峙して向き合いながら、常に集中している時と言い換えることができるかもしれない。勉強でもスポーツでもYouTubeでも何でもいいが、物事に本当に集中した時に人は、周囲のことなどどうでもよくなる。物音を立てられても振り向くこともないし、近くに誰かがいても気にすることもなくなる。逆に外部から何かしらの大きな刺激が加えられたなら、集中を継続させるために、または集中を遮られないようにするために、その刺激を遠ざけようと願うだろう。

集中しやすいものや夢中になりやすいものは人によってそれぞれ異なるだろうが、人間にとって集中とは非常に重要な要素であるように感じる。なぜなら集中できるものがその人にとって本質的に親和性の高い好きなものであり、集中することによってそれがやがて得意なことへと変わっていく可能性が非常に高いからだ。例えばぼくは勉強が好きで勉強に集中することに長けていたが、その集中により学問の能力を引き延ばすことができ、大学入試で医学部医学科に合格し医師になるという結果へと実際に繋がっていったのかもしれない。もしくは野球に夢中になり野球に集中することができる少年はその結果として野球選手になったかもしれないし、それは歌を歌うことや、絵を描くことや、旅をすることでも同じことかもしれない。自分が何を好きで、何に夢中になったり集中しやすいのかを、予め自分自身で明確に把握することは、未来を左右する原動力になるだろう。

集中したり、夢中になったりすることは心地がいい。なぜなら自分自身の世界に深く没頭し、外部との繋がりを遮断することができるからだ。集中するということは自分だけの特別な部屋にひとりきりで閉じこもり、誰からも邪魔されることなく独自の世界観を築き上げることを助ける。他人というものは煩わしいものでぼくたちは他人や環境というものをコントロールし切れずに翻弄されるしかないが、ぼくたちが集中したり夢中になる時、他人を遠ざけ無視することができ、ただ自分自身と向き合い無我夢中で自分自身の宿命と闘い続けることができる。

 

 

・「他人の役に立ちたい」と言う人は必死に人生を生き抜いていない

ぼくたちがこの世に生まれてきた意味は、自分自身の宿命と向き合いそれを一生かけてでも、この一生では辿り着かなかったとしても解決しようと努力することにあるとぼくは信じている。そのためにぼくたちは自分自身の人生に集中しなければならないし、必死に真剣に生き抜かなければならない。少なくともぼくはそのような生き様を描いているつもりだが、そのような生き様の中で人には何が起こるだろうか。

勉強に夢中になる少年のように、歌を歌うことに集中する少年のように、旅をすることに必死になる少年のように、ぼくたちが真剣に何かに没頭する時、他者を忘れる。外部を忘れる。もしかしたら我すらも、忘れてしまっているかもしれない。

この世に模範的な生き方として氾濫している「他人の役に立ちたい」という言葉を使う人々の目には、他人というものが見えている。ぼくにはそれが気に食わない。「他人の役に立ちたい」と願う人々は、必死にそして真剣に人生を生き抜いていない。なぜならば他人というものを意識できている時点で、必死さを免れた怠惰な余白を人生に残してしまっているからだ。

他人というものを意識している人に、ろくな奴はいまい。ぼくたちは油断するとすぐに必死に生きることを止めてしまい、集中が途切れてしまい、どうでもいい暇な時間で他人を意識し出し、そして比較し出す。あの人より自分の方が優れているとか、あの人よりも自分の方が勝っているとか、あの人よりも自分の方が幸福だなどと、腐敗した相対的な世界に精神を埋没させ、終わりのない競争の世界の中で真実の幸福を見出すこともなく、やがてはみすぼらしく朽ちていく。ぼくたちが絶対的幸福へ辿り着くための唯一の道は自分自身の人生に集中し、自分自身の宿命と向き合い、必死に人生を燃え盛るように生き抜くことだけなのではないだろうか。

 

 

・中島みゆき「PAIN」

呼びかける 呼びかける
問いかけは街にあふれても
ふり向けば ふり向けば
吹きすさぶ風ばかり

荒野の中 誰の声も聞かぬ一日
荒野の中 誰の声も聞かぬ一生

 

(この記事は著作権法第32条1項に則った適法な歌詞の引用をしていることを確認済みです。)

嘘をついてはいけないというのは本当か? 〜中島みゆき「問う女」の「PAIN」〜

 

・真実の「他人の役に立ちたい」の正体

この世には様々は種類の人間の様々な心があるので、別に「他人の役に立ちたい」と願う人間を否定はしない。だが究極的な「他人の役に立ちたい」という気持ちは、究極的に”自分の”役に立ち、究極的に”自分自身を”救済した後に辿り着ける桃源郷だとぼくは信じている。自分自身の精神を救うという作業を置き去りにして、最初から「他人の役に立ちたい」と願う気持ちをぼくは偽性だと訝しがっている。

 

 

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