あなたの一番好きな食べ物は何ですか?
桃と梨を一緒に食べられる時期があるというのは本当か? 〜真夏の情緒〜
・好きな食べ物は桃
・好きな季節は夏
・桃と梨の香りは8月の後半に重なる
・桃と梨をただ与えられていた時代
・好きな食べ物は桃
「好きな食べ物は何?」と人から聞かれると、ぼくは即座に「桃!」と答える。ぼくは桃が大好きだ。それも自分で買ってきて自分で剥いて食べる桃ではなくて、おばあちゃんが剥いてくれた桃を食べるのが好きだ。おばあちゃんが剥いて切ってくれた桃が、綺麗な曇りガラスの緑のお皿に入っていて、それを果物フォークで食べるのが好きだ。この感覚をわかってくれる人はいらっしゃるだろうか。
・好きな季節は夏
「好きな季節な何?」と人から聞かれたら、ぼくは即座に「夏!」と答える。ぼくは清流の気配が漂う美しい日本の夏が大好きだ。ぼくの中では、桃と夏には密接な関わりがある。桃は夏にできる果物だ。おばあちゃんの家には、毎年夏になると親戚から桃が送られてくる。ぼくが夏休みになっておばあちゃんの家に行くと、いつもそこには淡くいい香りのする桃があって、それを切って美しい曇りガラスのお皿に乗せてくれた。その曇りガラスのお皿が完全には透き通っていないからこその透明感があって、それがぼくの感じる夏の果てしない透明感と一致し共鳴していた。照りつける黄色い夏の光を予感させながら、少しく暗い屋内で食べる桃の甘さが、外で鳴く蝉の声に溶けていった。
・桃と梨の香りは8月の後半に重なる
「2番目に好きな食べ物は何?」と人から聞かれたら、ぼくは即座に「梨!」と答える。梨と桃にも密接なつながりがある。実りの季節が重なるのだ。桃は夏のもの、梨は秋のものと一般的には思われているが、梨は夏の8月中旬〜後半にかけても食べることができ、ぼくは秋の梨よりも夏の光の中で食べる透き通るような甘い梨の味が好きだった。
夏休みの後半におばあちゃんの家に行くと、そこには桃と梨が置いてあった。そしておばあちゃんは、順番にそれを切って出してくれた。一番好きな食べ物の桃を食べた後に、2番目に好きな梨を食べられるという夏の光の尊さをぼくは忘れることができない。いや、その夏の光の思い出があるからこそ、桃と梨が最も好きになったのかもしれない。桃と梨には、8月後半の強烈な夏の光と、おばあちゃんの家の静寂と仄暗さ、おばあちゃんから感じる過去の果てしない血脈、途切れてはまた始まる蝉の声、青々とした美しい山脈、そこに感じる清流の予感が込められている。
ぼくの食べ物の好みは、情緒に支配されている。
・桃と梨をただ与えられていた時代
桃と梨を与えられるという尊さを、いつまでも覚え続けられるだろうか。ぼくが夏の激しい光をくぐって家を訪れるだけで、おばあちゃんはぼくに切られた桃と梨を与えてくれる。その尊さにいつになれば気づくだろうか。
人は生きれば生きるほどに、与えられるばかりでは生きられないことに気がつく。誰かの役に立ち、誰かのためになり、そのようにして生きない限りは、生きている資格がないと告げられるようになる。誰かに自らの尊い時間を捧げ(労働)、その代わりに少ない生活の糧を手に入れ(給与)、それによりエネルギーを摂取しては(消費)、その輪廻の渦に組み込まれていく。
ぼくは誰かに与えるために生まれてきたんだ。誰もが、他人に与えるために生まれてきたんだ。そのように思考は書き換えられていく。その仕組みは説き続ける。「誰かに与えなければ生きていてはならない」「誰かに与えない人間は生きている価値などない」と。与えなければぼくたちは、与えられることができない。そして生きていくことができない。
そんな時に目を閉じて思い出す。ただ、与えられていた時代を。何ひとつ与えなくても、桃と梨を与えられていたという夏の光を。そして桃と梨が、おばあさまの慈しみにより切られていたという心の清流を。
いつから与えられるだけではいけなくなったのだろう。どうしてただ与えられるという思いに触れることをゆるされなくなったのだろう。