ご飯は誰かと一緒に食べた方が美味しいというのは本当か?

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ひとりで食べた方がご飯は美味しい!!!!!

ご飯は誰かと一緒に食べた方が美味しいというのは本当か?

・ご飯は誰かと一緒に食べた方が美味しいというのは本当か?
・誰かと一緒に食べると楽しいけれど、それは料理が美味しいこととは関係がない
・食事はひとりで食べた方がその料理自体の美味しさを噛み締められる
・“ひとり=さみしい“という洗脳を抜け出して、幸福への飛翔を果たそう

・ご飯は誰かと一緒に食べた方が美味しいというのは本当か?

「ひとりでご飯を食べるよりも、誰かと一緒に食べた方が美味しいよね」というのは、世の中でしばしば聞かれるフレーズだ。この意見は特に深く思考するまでもなく、なるほどそうなのかもなぁと思わせるような不思議な説得力がある。

確かに「一人暮らしで黙ってひとり夕食を食べている」図と「家族で集まって賑やかに会話しながら夕食を食べている」図の2つを想像してみると、明らかに後者の方が美味しい食事を楽しんでいるというような感じがする。

それもこれも前者は「さみしい」「孤独」「惨め」「かわいそう」というイメージがつきまとうのに対して、後者の方は「楽しい家族団欒」「美味しい家庭料理」「理想的な家族の時間」という雰囲気が連想されるからに他ならない。やや粗雑に言ってしまえば、前者はいかにも手軽なカップラーメンをすすっていそうなのに対して、後者はお母さんが作ってくれた温かなご飯を食べていそうな感じがするのも要因のひとつなのかもしれない。

外食するような際にも、お店でひとり黙々と食べているような人より、誰かと一緒に笑い合いながら食べているような人の方が美味しい食事を楽しんでいるという雰囲気が感じられる。

しかし実際には果たしてどうなのだろうか。本当にご飯は誰かと一緒に食べた方が美味しくて、ひとりで食べたご飯の方が不味いのだろうか。

 

 

・誰かと一緒に食べると楽しいけれど、それは料理が美味しいこととは関係がない

ぼくの経験から言うと、誰かと一緒に食べた方が“楽しい”というのは間違いないだろう。どんな人においても、誰かと一緒に食べるよりもひとりで食べた方が“楽しい”と主張する人はいないのではないだろうか。よほど気の合わない人と食べているのではない限り、食事というものは誰かとした方が“楽しい”に決まっている。

しかし重要なことは食事が“楽しい”ということと、食事が“美味しい”ということは全くの別物だということだ。何も深く考えないでいると、食事が楽しければご飯は美味しくなるだろうと単純に勘違いしてしまいそうになるが、楽しいというのは人間の感情のことで、美味しいというのは料理そのものに対する味覚のことなので明確に区別されるべきである。

大好きな人と一緒に楽しく食事をしているからといって、その食事の味が必ず美味しくなるとは限らない。大好きな人と食事をしながらでも、とんでもなく不味いハズレ料理を食べてしまうという可能性は大いにあり得る。いくら大好きな人と食事していたとしても、不味い料理は不味いのだ。その人と一緒に食事ができて楽しいと感じることと、その料理の味自体が美味しいか不味いかは本来関係がないと言っていいだろう。

 

 

・食事はひとりで食べた方がその料理自体の美味しさを噛み締められる

ぼくが常々感じているのは、世間一般の常識とは反して、ご飯ってひとりで食べた方が美味しいのではないかということだ。もちろん誰かと一緒に食べた方が会話も弾むし、過ごす時間は楽しいだろう。しかし誰かと一緒に食事をすると、会話することの方に気をとられて、食事本来の味を楽しむことを忘れがちにならないだろうか。

話の合う人と会話をすればするほど、会話をするのが楽しければ楽しいほど、会話するということに夢中になりすぎて、食事の味をきちんと味わおうとする気持ちが疎かになってしまう。料理自体の味にきちんと向き合い、意識を味に集中させることが難しくなり、どうしても相手を会話で楽しませなければならないこととか、自分の意見や思いを伝えようとする方に労力を使ってしまう。

もちろんその食事の目的が「その人と一緒に楽しい時間を過ごす」ということならばそれでも問題ないのだが、その食事の目的が「料理自体の味をしっかりと味わい、美味しさを噛み締める」ということならば、誰かと一緒に食事をするというのは不適切であると言わざるを得ない。本当に食事の美味しさを舌でしっかりと感じたいというのなら、会話という余計な行動を伴うことがないようにひとり静かに食事をし、意識を集中し雑念を取り払い、料理自体としっかり向き合うべきではないだろうか。

本当はものすごく美味しい料理を食べているはずなのに、会話が忙しくて十分にその美味しさを吟味できていないと感じることがぼくの人生では何度かあった。あまり仲良くない人や、気を使わなければならない人ほど、その傾向は強くなると言えるだろう。逆に何の遠慮も要らないような友人や、家族などの気を遣わなくていいような相手と一緒に食事をするならば、料理本来の味を集中して楽しみやすいのかもしれない。しかしそのような場面でも会話に熱中してしまえば味のことなど忘れてしまうだろう。

 

 

・“ひとり=さみしい“という洗脳を抜け出して、幸福への飛翔を果たそう

世間一般的にはひとりでご飯を食べるなんて、さみしいしきっとご飯も美味しくないと思われがちだ。しかしぼくはその逆に、きちんとその料理本来の美味しさをきちんと味わいたいのならむしろひとりで食事すべきだと主張する。その料理の本当の味と向き合いたいのなら、その料理にだけ意識を集中させるべきだ。誰かと楽しく食事をしていると、料理ではなくてどうしてもその相手や会話に意識が向いてしまう。静かに、集中して、料理の美味しさを最大限に噛み締め追求できるのは、ひとりで食べる極めて大きなメリットだと言えるだろう。

人間社会では“ひとり=さみしい“という植え付けや洗脳が横行している。それは考えてみれば当然のことで、お金を儲けることが最大の目的となっている資本主義社会のこの世において、人間にひとりで行動されてしまっては稼ぎが少なくなってしまう。重要なのはひとりではなく多人数で行動させ、消費させ、たくさんのお金を使ってもらうことだ。人付き合いとなると人間はひとりの時よりも、かなり余計な無駄遣いを無意識のうちにしでかしてしまうものである。「ご飯は誰かと一緒に食べた方が美味しい」というのも、民衆の大量消費を狙う企業側から世間に発信された植え付けの決まり文句ではないだろうか。

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そのような人間社会の企みも知らずに、素直に“ひとり=さみしい“という世間の常識を受け入れることは愚の骨頂だ。誰かと一緒に行動することのメリットも確かにあるが、それと同じくらいひとりで行動することの長所だってたくさんあるはずだ。誰にも煩わされずに静かに集中できる、他人の目を気にせず自由に行動できる、人付き合いで余計な無駄遣いをしないことなどは、ひとりで過ごす大きなメリットではないだろうか。

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“ひとり=さみしい“という間違った常識の植え付けから派生した「ご飯は誰かと一緒に食べた方が美味しい」という思い込みから抜け出すためには、それなりの思考と経験と物事を見極める力が必要だろう。しかし一度その思い込みから抜け出してしまえば、世間に蔓延しているその他の常識さえ自らの思考でことごとく打ち破る潜在能力が身に付くだろう。その力はぼくたちを、より生きやすい方角へと導いてくれるに違いない。「ご飯は誰かと一緒に食べた方が美味しい」という思い込みに支配されて、ひとりでご飯を食べる自分に罪悪感を抱いていてはせっかくの人生の時間の大いなる無駄である。愚かな洗脳から解き放たれ、幸福へと飛翔するための羽をぼくたちはひとつひとつゆっくりと繕ってゆく。

 

 

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