ぼくたちにはそれぞれ生まれてきた使命があるというのは本当か?

(この記事には広告が含まれる場合があります)

 

ぼくたちはなぜこの世に生まれてきたのだろう。

ぼくたちにはそれぞれ生まれてきた使命があるというのは本当か?

・中島みゆき「国捨て」(夜会「橋の下のアルカディア」より)
・ぼくたちにはそれぞれ生まれてきた使命があるというのは本当か?
・使命とは普遍的ではなく、自分だけが特別心からやりたいと直感すること
・労働や人助けは使命だと名付けられやすい
・人の役に立たない行為も使命であることがゆるされるかもしれない
・この世の悪行は使命だとは決して見なされない
・使命という言葉の怪しさと、あらゆる悪を抱きしめてあげよう

・中島みゆき「国捨て」(夜会「橋の下のアルカディア」より)

空ゆく数多の翼には
憧れ抱かせる光がある
この世のすべての翼には
ただひとつだけの使命がある

中島みゆき夜会「橋の下のアルカディア」のあらすじと曲目と考察!社会の幸福は個人の犠牲によってしか成り立たないというのは本当か?

 

・ぼくたちにはそれぞれ生まれてきた使命があるというのは本当か?

人間の世界を生きているとよく「ぼくたちにはこの世に生まれてきた意味がある」「ぼくたちは何らかの使命を果たすためにこの世に生を受けたのだ」という話が人々の間で語られるが、一体ぼくたちがこの世に生まれきた意味とは何だろうか。ぼくたちの生命に授けられた使命とは、どのようにして見つけ出せばいいのだろうか。

 

 

・使命とは普遍的ではなく、自分だけが特別心からやりたいと直感すること

そもそも「使命」とは何だろう。普通に考えれみれば、自分が心からやりたいと感じることだろうか。しかし心からやりたいことが「使命」だからと言って、みんなが共通してやりたいと思っていることは「使命」に数えられないだろう。「使命」と仰々しく語られるくらいなのだから、何かひとりひとり異なる、特別にその人にしか課されていない特異的な役割のことだろう。

ぼくたちには心からやりたいと感じることがいくつかある。ぼくたちはお腹が空いたら美味しい料理を食べたいし、体や心が疲弊したら心から眠りたいと願うし、若いうちは性欲がみなぎり頻繁にセックスしたいと心が震えるだろう。しかしだからと言ってこられの三大欲求が、ぼくたちの「使命」だとは言いづらい。誰だって食べたいし、誰だって眠りたいし、誰だってセックスしたいし、それは人類共通の心からの普遍的な願いであって、自分はこのために生まれてきたのだと断言できるような、自分だけに特別な生命の「使命」とは数えにくい。

「ぼくは食べるために生まれてきたのだ!」と使命感をたぎらせる人が目の前にいたらきっと頭の中が「???」となってしまうし、いくら性欲がみなぎってるからと言って「ぼくはセックスするという使命を授かってこの世に生まれたのだ!」と断言する人がいたら、ちょっと落ち着けよ使命ってそんなものじゃないだろうと違和感を覚えられるだろう。

「使命」とは、自分が心からしたいと願うことであり、且つ他の誰もが滅多にしたいと感じることのない特別なものでなくてはならない。

 

・労働や人助けは使命だと名付けられやすい

一般的に人の世で「使命」というかっこいい言葉で言い表されるのは、労働や人助けに関することが多い。例えば「ぼくは病気で困って苦しんでいる人々を救うために医者になったんだ!どんなに重労働でも医者はぼくの天職であり使命だと思う!」と言う人があったなら、なるほどあんたの使命は医者になって多くの人々を助けることだったに違いない!と誰もが納得するのではないだろうか。これは別に医者でなくても、看護師でも、理学療法士でも、医療関係者なら誰でも当てはめることができる文章かもしれない。

また「自分は町の平和を維持するために警察官になったんだ!これはぼくの使命だ!」と言われれば深く納得するし、「美味しい野菜を作るために私は生まれたきたのだと感じる」と生き生きと農業に従事する人が人がいれば、畑仕事がその人の生命の使命だったのだろうと感じるし、その他の全ての労働でも通じる観念だろう。「使命」という言葉は、労働や人助けと結び付くとより説得力を増す、労働や人助けと親和性の高い言葉だと言えるだろう。

しかし自分が心からやりたいと情熱を燃やすことが、人助けや人の役に立たないという場合には、それは「使命」と見なされるのだろうか。

 

・人の役に立たない行為も使命であることがゆるされるかもしれない

たとえば「ぼくは心から旅がしたくてしたくて仕方がないんだ!ぼくは世界を旅するために生まれてきたのだ!旅こそがぼくの使命だと思う!」という人が目の前にいたら、あなたはどう思うだろか。ああこの人の言う通り、この人の使命は旅をすることなのだろうと感じられるだろうか。

「旅」の形態には様々あるものの、基本的に旅は消費行動である。飛行機代を支払い、バス代を支払い、宿代を支払い、入場料を支払い、ぼくたちは旅を続ける。旅をしていてお金を生み出すという人は少なく、基本的にはお金は減り続け消費するのみである。また旅というものは人の役に立つ行動であるという場合が少なく、ほとんどの場合は自分の心や魂を満たす行為に留まることが多い。つまり人助けや労働にはなりづらいということだ。

人助けや労働ではない行為を「使命」だと言う人を見て、そうかそうかと納得する人もあれば、そんな誰のためにもならないことは「使命」なんかであるはずはない、「使命」というものは誰かの役に立ってこそ「使命」と呼べるだろうと、旅や放浪を「使命」だと言うことに反発を覚える人も中にはあるかもしれない。しかし人の役に立ってはいないけれど「旅」は人に迷惑をかけているわけでもないので、そこまで旅の「使命」感を必死に否定する人もおらず、まぁいいんじゃないのそれでと軽く流されることも多いに違いない。

 

 

・この世の悪行は使命だとは決して見なされない

では自分が心からやりたいと感じることが、人間世界の中では”悪行”と呼ばれている行為だった場合にはどうなるのだろうか。たとえば万が一「自分は人を殺したくて殺したくて仕方がない、自分は人を殺すために生まれてきたのだ、人を殺すことがこの生命の使命だと思う」と言うような人がいたらどうだろうか。また人を殺すことばかりではなく、ものを盗むこと、嘘をつくこと、肉体を売ること、愛すべきではない人を愛することなど、この世で”悪行”だと称されている行為をやりたくてやりたくて仕方がなく、心からそれが自分の生まれてきた理由であり「使命」だと感じたときに、果たしてそれは「使命」だと呼べるものだろうか。

誰もがそんなことが生まれてきた理由であるはずがない、そんなものが生命の「使命」であるはずがないと猛反発するに違いない。たとえ自分だけがやりたいと特別に感じる行為であっても、それが人の役に立つような行為でも労働行為でもなく、また誰の役に立たない行為でもなく、誰かの害になるという行為については、誰もがそれを「使命」だと呼ぶことに強い反発を覚えるだろう。そんな行為を「使命」だと感じるなんてどうかしているし、迷惑なことこの上ないし、その人は異常な人間だと見なされて人間社会から追放されるだろう。

たとえその人が心からやりたいと願うことであっても、その人自身はそれこそが自分の生まれてきた意味だ、自分の生命に課せられた「使命」だと強く純粋に感じていようとも、その行為が人間の裁きによって”悪行”だと見なされた場合には、それは「使命」と呼ぶことをゆるされずに、心の炎だと美しく語られることもないだろう。しかしもしかしたらその悪行は本当にその人にとっては、大切な心の中の唯一の支えである美しい炎であることもあるかもしれない。人間とは全ての人々が自らの「使命」をゆるされるとは限らない、悲しい生き物かもしれない。

 

 

・使命という言葉の怪しさと、あらゆる悪を抱きしめてあげよう

「使命」なんて言葉はかっこよく美しく使われているが、所詮人間社会に利用されているだけの言葉の道具に過ぎないのかもしれない。人間集団や人間社会に利益をもたらす都合のいい労働や人助けに対しては、大げさに「それがあんたの使命に違いない!」「これが俺の使命なんだ!」と賞賛し、褒め称え、さらなる労働や部品行為を促進するだけの都合のいい潤滑油の言葉なのかもしれない。

個人の幸福よりも社会の幸福の方が重要だというのは本当か?

人の役にも立たないもの、人に害を与える悪だと見なされたものに関しては、どんなに本人がそれを情熱的で心からの「使命」だと感じていたとしても「そんなものは使命であるはずがない!」「もっと人助になる、人間集団にとって都合のよい存在になれるような別の使命を探すべきだ」とぞんざいに扱われ見下されるだけなのだろう。

ぼくたちの心の炎は、人間世界の善悪によって裁かれるほどに浅薄なものだろうか。ぼくたちの真実の使命は、人間集団の利益を貪る欲望の波に飲み込まれるほど浅い次元に位置するものだろうか。

誰に何を言われようとも、ぼくたちの心の根源には燃え盛る炎がある。人の役に立とうが立つまいが、直感が目指してしまう清らかで純粋な感性がたちどころに天まで届く。心の根源には善悪などなく、無意識の領域には境界などなく、世界が形成される前の混沌の姿のままでうねりながら眠っている。真理の世界は危うく、されど確かな足跡を辿ってこの世の岸辺にまで迫り来る。

あらゆる悪を抱きしめてあげよう。使命を使命だと呼ぶことをゆるされず、炎を炎だと叫べずに死んでいった者たちへ。清らかな悪に慈しみをあげよう。美しいものを美しいと、感受することさえ戸惑って迷い込んでしまった魂たちへ。あらゆる悪は大いなる川の水を渡り、理趣経の言霊がいつしか注ぎ込まれよう。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

 

関連記事