「私のことはどうなっても構わない!だけど…」というセリフをアニメなどでよく見かける。
自己犠牲できる人が素晴らしいというのは本当か?
・アニメでは「私のことはどうなっても構わない!だけど〜にだけは手を出すな!」という場面をよく見かける
・自分よりも他人を大切にできる感動
・自己犠牲できる人が素晴らしいというのは本当か?
・自己の観念を取り払い、自己犠牲の怪しさを見抜け
目次
・アニメでは「私のことはどうなっても構わない!だけど〜にだけは手を出すな!」という場面をよく見かける
アニメなどで正義の味方が強い敵と戦っていて、正義の味方の方が不利になって敵にやられそうになった時に、主人公が自分よりも弱い味方やもしくは大切な相棒をかばって「私のことはどうなっても構わない!だけど〜にだけは手を出すな!」と敵に言い放つシーンがしばしば存在する。
どういうことかというと、例えばAさんとBさんが敵と戦っていて、AさんとBさんは互いに大切な仲間であるとする。AさんとBさんは正義の味方だが敵の方が力が強く形勢は不利な状態であり、敵がBさんを傷つけようとする。そんな時にAさんがよく敵に言い放つ発言として典型的なものが「私のことはどうなっても構わない!だけどBにだけは手を出すな!」というものだ。
この場合、Aさんは自分を煮ようが焼こうが好きにするがよい、たとえ自分がことごとく滅ぼされてもBさんさえ守れればそれでいい、と思っていることが伺える。自分は殺されても構わない、たとえ自分を犠牲にしたとしても大切な仲間であるBさんを救いたいという自己犠牲の表現は、Aさんの大きな愛にあふれた美しい心を示唆するものとして感動的な発言ととらえられるだろう。また自分の命を引き換えにしても仲間を守りたいと強く願うAさんには称賛の声が浴びせられるに違いない。しかしこの自己犠牲の発言とは、それほど素晴らしいものだろうか。
・自分よりも他人を大切にできる感動
自分のことを犠牲にしてでも他人のことを思いやることを、世間では賞賛される。本来人間というものは、他人のことよりも自分のことを一番に大事に考える存在であり、それは”自我”を持っているのだから当然のことである。
大抵の人間は他人のことよりも自分のことを優先して考えるものなので、自分のことよりも他人を優先して考える場面を見たとき、そこにそこはかとない違和感や矛盾を感じ、そして人間は自分のことが一番大切なはずなのに、そんな自分すらも犠牲にしてまで守りたい人がいるのだ、それこそが愛の表出だと感動する傾向にあるのだ。
・自己犠牲できる人が素晴らしいというのは本当か?
確かに他人よりも自分を傷つけろとは、なかなか言えない勇気ある発言であるとは思う。人間たちはこのように、自己犠牲の思いを抱いてまで他人に尽くすべきだと、教育や道徳として教え込もうとする。しかしいくら「私のことはどうなっても構わない!だけど〜にだけは手を出すな!」という自己犠牲の場面が美しいからと言って、自分の利益や欲望を尊重せずに生きろ、自分のことを大切にするよりもむしろ他人のことを大切にしろというのは、少し言い過ぎではないだろうか。
「私のことはどうなっても構わない!だけど〜にだけは手を出すな!」というのは言い換えれば「〜を傷つけることは止めろ!その代わりに私を傷つけろ!」というのと同義だ。他人を大切にするあまりに、自分を大切にすることを忘れている。自分を大切にできないような人間に、果たして真実の意味で他人を大切になどできるのだろうか。
・自己の観念を取り払い、自己犠牲の怪しさを見抜け
人間というものは、私とかあなたとか、自分とか他人とか、とにかく自己というものに執着しすぎて自己を起点として物事をとらえすぎなのだ。「私のことはどうなっても構わない!だけど〜にだけは手を出すな!」という発言は、「私」という自己の観念を取り除いてしまえば、一人の人間を傷つけない代わりにもう一人の人間を傷つけてもよろしいと言っているに等しい。そう考えてみれば結構ろくでもない発言ではないだろうか。
Aさんが「私のことはどうなっても構わない!だけどBにだけは手を出すな!」と発言する前の世界では、傷つけらるのはBさんだ。しかしAさんが「私のことはどうなっても構わない!だけどBにだけは手を出すな!」と発言した後の世界では、その願いが敵に聞き届けられたならば、傷つけられるのはAさんだ。自己犠牲とか他人とかいう雑念を取っ払って世界をニュートラルに眺めたならば、発言の前であろうと後であろうと、一人の人間が傷つけられるという事実では何の変わりもありはせぬ。これではこの発言というのは、結局無意味なのではないだろうか。
正義の味方というものは、本来ならば誰も傷つかない方法を模索するべきではないだろうか。利他の精神を貫けている自分自身に酔って口から出された自己犠牲の発言も、結局は傷つけられる人間を一人も減らせていないのでは、何ひとつ世界を平和にできていないのではないだろうか。
ぼくは「私のことはどうなっても構わない!だけど〜にだけは手を出すな!」などと言い放つような人間はなんとなく信用できないような気がする。この発言は自己犠牲だから一見美しく耳障りよく聞こえるだけで、その根本にはこの発言主の「誰かを犠牲にすることで物事をなんとなくやり過ごそうとする性格」が深く示唆されているように思う。この場合は犠牲にするのが自分だからまだ美談であるものの、また別の場面では自分とは異なる者を犠牲にし、物事をうまくやり過ごす可能性があるのではないだろうか。
真実の救済とは、犠牲など超越した国にあるはずだ。