勉強しかできない人の特徴と本質とは!「あなたは勉強しかできない」と悪口を言ってもいいというのは本当か?

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水野亜美ちゃん「私からお勉強をとったら何が残るのだろう」

勉強しかできない人の特徴と本質とは!「あなたは勉強しかできない」と悪口を言ってもいいというのは本当か?

・「私は勉強だけしか取り柄がない」と悩む水野亜美ちゃん
・勉強できない人が勉強できる人を蹴落とすための必死の発明「勉強しかできない」
・「勉強」の中には普遍的な世界の全てが含まれている
・勉強の才能とは、インプットとアウトプットの優れた融合
・愚かしい相対性の苦海から抜け出し、絶対的なステージへ飛び立て

・「私は勉強だけしか取り柄がない」と悩む水野亜美ちゃん

セーラームーンSの第8話「水のラビリンス!ねらわれた亜美」で、天才少女の水野亜美ちゃんが「私からお勉強をとったら何が残るのだろう」「私は勉強だけしか取り柄がない」と悩む場面がある。彼女は全国模試でも常にトップを維持するほど勉強の才能があるが、逆に得意なことが勉強以外にないことをコンプレックスに感じているようだ。

勉強や学問というのは、学生がすべき最も重要な課題であると世の中では見なされている。勉強が極めて得意だと中学や高校では目立つし、有名人にもなる。野球が得意だったり、走るのが速かったり、歌が上手だったりするのも立派な才能だが、「学生の本分は勉強」と世の中で見なされている以上、学生時代において勉強が得意だというのは最も栄誉ある才能ではないだろうか。

 

 

・勉強できない人が勉強できる人を蹴落とすための必死の発明「勉強しかできない」

そんな勉強の才能があることに対して、「勉強しかできない」と悩むなんてやや贅沢な感じもする。しかし勉強が得意な人が、勉強のできない人の嫉妬心から「あなたは勉強しかできない」と攻撃されるのはよくあることだ。それゆえに純粋な心を持った勉強のできる人は、他人の妬みと悪意にさらされ、その言葉をそのまま間に受け、本当に自分は勉強しかできない駄目な奴だと思い込んでしまう例もたまに見かける風景である。

しかし「あなたは勉強しかできない」と言われて、本当に落ち込む必要があるのだろうか。「あなたは勉強しかできない」という悪口は、かなり筋の通らない意味不明な攻撃である。

まずそもそもとして、勉強しかできないなんて結構な話ではないか。学生の本分は勉強と言われていうくらいなのだから、勉強が得意であることをむしろ誇らしく思っても何の不思議もない。しかし勉強が得意な人は控えめでおとなしい人が多いので、乱雑で獰猛で悪意のある性格の人間に「あなたは勉強しかできない」という言葉を押し付けられてしまうと、心が萎縮してしまう傾向があるのかもしれない。

野球が得意な人は、言い換えれば「野球しかできない」。しかし野球しかできないことがかっこいいと世の中では見なされているのではないだろうか。自分の得意な分野を見つけて、それを究めて、よりその才能を磨き上げる姿は素晴らしい。それって「野球」を「勉強」に変えたって同じことではないだろうか。野球しかできない人、速く走ることしかできない人、歌を上手に歌うことしかできない人、それぞれに自分の才能を持っていて素晴らしいと評価されるのに、どうして「勉強しかできない人」となると、世の中では悪口として成立するのだろう。

それはおそらく人間の世の中自体が、勉強ができないことにコンプレックスを持っている人の集まりであり、勉強できる人に対する嫉妬心が見えないところで激しく渦巻いているからではないだろうか。勉強ができない自分のうしろめたさをなんとか慰めるために、勉強できる人を攻撃できる手立てをなんとか探そうと必死になる。しかし「学生の本文は勉強」と言われている世界において、勉強ができるというあまりにも輝かしい才能を見下すことは極めて難しい。彼らが悪あがきしながらかろうじて編み出した手法は「勉強ができる輝かしい才能」を「勉強しかできない哀れな人間」へと意識下で転換させることではないだろうか。

その転換は多数決の原理によって、簡単に可能になる。勉強が得意な人間というのはごく一部であり、その他は勉強が不得意であり、多かれ少なかれそのことをコンプレックスに思っている人ばかりだからだ。勉強が不得意な人々は悔しいので、なんとかして勉強が得意な人に勝ちたい。しかし人間には向き不向きがあるので、どうしても勉強の才能のある人には敵わない。そこで自分が勉強するという努力もしないで、勉強できる人の地位を相対的に引きずり下ろし、自分が相対的に楽に優れた人間になろうとする下劣な手口が、「勉強ができる輝かしい才能」から「勉強しかできない哀れな人間」への転換である。何の努力もしないで勉強が優れた人間を相対的に引きずり下ろしたいと密かに願う勉強が不得意な人間たちは世の中に多く、勉強が不得意な人々の圧倒的な数の力により、「勉強しかできない」という言葉は悪意ある悪口として世間で通用するようになる。

しかしこの仕組みを理解し、「勉強しかできない」という悪口の本質に気づくならば、嫉妬深い勉強のできない人々はなんて哀れで無様なのだろうという感想しか出てこない。水野亜美ちゃんも他人から「あなたは勉強しかできない」と言われたならば、落ち込む必要は一切なく、そう発言することでしか自分のプライドを保てないちっぽけで可愛そうな人と相手を憐れむくらいでちょうどいいのではないだろうか。

 

・「勉強」の中には普遍的な世界の全てが含まれている

また「勉強しかできない」という言葉自体がちゃんちゃらおかしい。「勉強」という言葉には、たくさんの教科が含まれているからだ。勉強の中には、英語、国語、数学、物理、化学、生物、地理、歴史、公民、音楽、書道、家庭、技術とか、世界を構成し生活に役立つありとあらゆる学問が含まれている。「勉強」というのは実に多様性をはらんだ言語なのだ。それらすべての学問において常に高いレベルの能力を保ち続けられている人が「勉強が得意な人」なのだ。それってかなりマルチな才能ではないだろうか。

勉強できるということは、多分野にわたるこの世界の様々な知識を蓄え、その知識を自らの独自の感性や発想と化合させ、普遍的且つ自分だけの創造や意見をこの世界に発露させることに優れているということだ。つまりそれって、そつなく何でもこなしますよということを意味するのではないだろうか。

「勉強」というかなり多様性を持つ言葉に、「しか」という助詞を使っていること自体がものすごく理不尽である。まさに「勉強しかできない」という悪口は、勉強ができない頭の悪い人が嫉妬心から発明した言葉だということがよくわかる一例である。

 

 

・勉強の才能とは、インプットとアウトプットの優れた融合

さらに言えば勉強だけしかできない人なんて、本当にいるのだろうか。勉強ができるということは、記憶力と思考力を同時に合わせ持ち、知識を適切に吸収する能力を持ち、さらにその吸収した知識と自らの発想や感性を融合させ外界に表出できるということだ。またそれを優れた形で達成できるだけの集中力と、持続力があるということをも意味する。それをひとつの科目だけではなく、多くの教科が集う「勉強」というステージで満遍なく可能なわけだから、わりかしどんな物事でもこなしてしまうだけの能力を持っているに違いないと言えるのではないだろうか。

 

 

・愚かしい相対性の苦海から抜け出し、絶対的なステージへ飛び立て

「あなたは勉強しかできない」という悪口が、まかり通っている世の中は悲しい。それは努力して勉強の才能を開花させた人に対する、嫉妬から来る悪意の放出に他ならない。勉強ができるというのは学生時代には特に目立つから、注目を集めやすく嫉妬も生じやすい。一方で勉強が不得意な人は、ただ出来が悪いだけだ、頭が悪いだけだと世の中からつまらないとみなされ、無視され、存在感が薄い分だけ悪意を注がれることもなく平穏に生きられる。特に何も注目されることを成し遂げていないから、善意も悪意も向けられるいわれがないのだ。

頑張ったり努力して結果を出している人や自らの才能に気づいてそれを深めている人の方が、努力も才能も足らずに自分の才能が何かも見出せずにくすぶっているような種類の人間よりも、悪意を向けられやすいだなんておかしな現象ではないだろうか。いや、むしろ大多数の後者の人々が、少数の前者の人々に悪意を向け攻撃しているというイメージだろうか。

そんなことをして勉強の才能のある人の地位を相対的に下げ、その分自らが相対的に地位の高い人間になろうと努力している時点で、自らの行いのレベルの低さに気がつくべきである。他人を相対的に蹴落として得た自らの相対的に高い地位なんて、偽りの幻想だ。そんな迷妄の世界でもがき苦しんでいないで、相対的ではなく絶対的な人としてのレベルを上げるために、短い人生という期間の中で修行に励むべきである。

 

 

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