コロナ禍の恐怖!日本各地で「県外ナンバー狩り」が横行しているというのは本当か?
・日本で「県外ナンバー狩り」があるというのは本当か?
・メディアの恐怖や恐れを民衆に植え付ける性質
・沖縄ナンバーの車で関西で暮らしていたが「県外ナンバー狩り」は皆無だった
・浜崎あゆみ「identity」
・日本中を沖縄ナンバーで走行したが「県外ナンバー狩り」は皆無だった
目次
・日本で「県外ナンバー狩り」があるというのは本当か?
新型コロナウイルスの感染が日本中に拡大していく中で、県境を越える移動自粛が国民に要請されていた初期には、「県外ナンバー狩り」という言葉が話題になっていた。なんでも車のナンバープレートの都道府県が県外だと、県境を越える移動自粛が要請されているにも関わらず県外へやってきてウイルスをばらまく無法者だと見なされ、住民から嫌がらせをされたり悪口を投げつけられたりするということだった。
もしも本当にそんなことをされるならば恐ろしいことだが、冷静に考えてみれば他県から引っ越してきてそのまま県外ナンバーで過ごしている人もいるだろうし、他県ナンバーなだけで嫌がらせをするなんて不寛容だし軽薄な気がする。新型コロナウイルスが人体にどのような影響を与えうるかわからない感染拡大初期の段階だったからこそ、日本人も冷静さを欠いてしまったということだろうか。
インターネットやテレビのニュースでは「県外ナンバー狩り」として県外ナンバーの車に傷をつけられたり罵声を浴びせられたりあおり運転をされる事例が紹介され、それを見た人々は面白がったり恐怖を抱いて反応し「県外ナンバー狩り」の情報は拡散されていった。しかし実際のところ本当に「県外ナンバー狩り」なんてそんなにしょっちゅう起こるものだろうか。日本で起きたものすごく珍しいほんのわずかな事例を紹介しては、「県外ナンバー狩り」が日本中で多発しているようにメディアが見せかけることで、民衆たちはまんまとそれに騙されているだけではないだろうか。
・メディアの恐怖や恐れを民衆に植え付ける性質
メディアというものはいつも人々が恐怖を感じそうなこと、自らの身に降りかかったら心配なこと、そして自らの身に起こる可能性がなきにしもあらずなことを紹介しては、民衆の気を引こうとする。民衆に見られてこそ、メディアは注目され、金を稼ぐことができるからだ。メディアは嘘であろうが本当であろうが記事がなるべく目立つように、多くの人々の注目を浴びるように、大したことのない些細な出来事でも大げさに書き立てるに違いない。
しかも自分にもこんな出来事が起こってしまうのではないか、こんなことが我が身に起きたらどうしようとなるべく大きな恐れや心配を民衆に植え付けるように仕向けることで、民衆に反応、拡散させ、自らの記事を注目される方向へと導いてゆく。民衆たちは恐怖や恐れを植え付けられ、その焦りや困惑から記事を拡散する方向へと操られているとも知らずに、自らの恐怖に打ち勝つことができずに周囲を巻き込みうろたえ始める。人の世で「県外ナンバー狩り」という言葉が流行ったのも、これと同じ構図ではないだろうか。
・沖縄ナンバーの車で関西で暮らしていたが「県外ナンバー狩り」は皆無だった
まさにぼくは、県外ナンバーで生活している者のひとりだ。なんと沖縄ナンバーで関西に住んでいるから、それはそれは目立つことだろう。それではぼくが県外ナンバーで日常生活を過ごして、人の世で噂されている通り「県外ナンバー狩り」に遭い、日常的に嫌がらせをされたり罵声を浴びせられたりしているだろうか。
そんなことはまったくない。一度も被害に遭ったこともなければ、そのような気配も露ほどもない。世の中で噂になっている「県外ナンバー狩り」という言葉など、バカバカしい戯れ言だと感じられてしまうほどだ。
家族は一度だけ県外ナンバーだと不審がられるから県内ナンバーに変えた方がいいのではないかとぼくに助言してきたが、取るに足らない意見だと感じて即座に却下した。そんなに弱気で生きていてどうするのだろうか。他人にどう思われるか不安だとか、他人に悪い噂を立てられるのが嫌だとか、そんな薄弱な精神でこの世の荒波を乗り越えられるというのだろうか。
別に他人にどう思われてもいいではないか。他人に悪口を言われたって、そいつらが間違っているのだと爽やかに笑ってやればいいではないか。ぼくは県外ナンバーの車を持っているけれど、ぼくは長らく県内に住んでおり、何も後ろ指さされることもなければ、咎められることも何ひとつないのだから、堂々と胸を張ってこの世を生きてゆけばいいだけだ。
何も悪いことをしていないのに他人の目を気にするばかりに、自分が間違った不良品であるような視線を自らへ向かって投げかけることこそ、愚かしい不幸な人生の始まりである。他人にどう思われるかどうかよりも、自分がどうあるべきかの方がはるかに重要だ。他人の心なんて自分を可愛がるために相手を陥れようと、あちらへこちらへと都合よく移り変わる実態のない蜃気楼だ。そのような思いやりのない人の心に影響されて生きているほど、人生は暇ではない。
・浜崎あゆみ「identity」
”どう見られているかなんて重要じゃないの
必要なのは どうあるべきか”
”どう思われたいとかなんて重要じゃないの
守りたいのは どうありたいか”
・日本中を沖縄ナンバーで走行したが「県外ナンバー狩り」は皆無だった
しかしぼくの県外ナンバーの車が「県外ナンバー狩り」に遭わなかったのは、ぼくの住んでいる地域の人々の心が比較的寛容で、民度が高かっただけであるとも考えられる。そのような可能性は0ではないはずだ。果たして日本中を沖縄ナンバーで駆け巡っても「県外ナンバー狩り」に遭わないのだろうか。
ぼくは県境を越える移動自粛要請が解除されてから「日本海沿いを北上する旅」を決行した。具体的には大阪、兵庫、岡山、広島、山口、福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎、島根、鳥取、京都、福井、石川、富山、新潟、長野、山形、秋田、青森を沖縄ナンバーで走行し、青森の港から車ごと北海道までフェリーで渡り「北海道一周の旅」を続行し、さらにそれが終わると北海道から青森へとフェリーで帰ってきて、「太平洋沿いを南下する旅」を続行し、青森、岩手、宮城、福島、茨城、栃木、群馬、長野、岐阜まで旅を継いできて今に至る。
これほど日本中を沖縄ナンバーで駆け巡って、「県外ナンバー狩り」に遭ったことは皆無であるし、そのような気配もまったくない。それどころか沖縄ナンバーだから珍しがられたり、面白がられたりして親しげに話しかけてくれる人々が圧倒的に多い。金を稼ぐためにメディアは、日本人が「県外ナンバー狩り」をするような不寛容で田舎者的な民族であるというイメージをぼくたちに植え付け、洗脳していたが、延々と続けてきたぼくの旅の結果こそが真の日本人の姿としての答えではないだろうか。