愛するから生殖すると言うけれど…。
愛しているからセックス(生殖)するというのは本当か?
・愛と生殖が結びついているというのは本当か?
・愛とは見返りを求めない感情
・人々が「愛」だと勘違いしているものの正体は「発情」だ
・本当の愛と発情の狭間で
・発情による生殖から愛が生まれる可能性は残されている
・三島由紀夫「美しい星」
目次
・愛と生殖が結びついているというのは本当か?
ぼくたちは人が愛し合うことは素晴らしいことだと教えられる。そして愛し合っていれば自然と生殖を行い、その結果として子供が生まれ、人類の子孫は繁栄していくという。まさに愛があるからこそ人類の歴史は築き上げられるのだと言わんばかりの発想が世の中に蔓延し、愛は尊いものだとどこもかしこも愛の宣伝が行われているが、そもそも愛と生殖が結びついているというのは本当なのだろうか。
・愛とは見返りを求めない感情
愛というのは見返りを求めない、ただ与えるだけの行為である。こちらが愛する気持ちを与えるが、お返しに何もくれないからと子供のように泣き叫ぶようでは、それは愛ではない。愛とは与えっぱなしの行為だ。何ひとつ返されなくても、愛を与えることによって、心が満たされるところの尊い思いが愛である。
したがって「愛しているから生殖したい」などと感じることは、愛の原則から外れている。愛する気持ちのお返しに、生殖してくれと期待してしまっているからだ。本当に愛しているならば、生殖などしてくれなくてもその人を愛し続けるべきである。しかし一体どれほどの人間が、生殖なしの「愛」に耐えられるのだろうか。
そもそも生殖という行為自体が、快楽を与えるからそのお返しに快楽を与えられるということを前提として期待している。快楽を与えっぱなしで快楽をお返しに与えられない生殖なんて、想像できるだろうか。自分に快楽が与えられない生殖なら、人間たちはそんな疲れる無駄な行為をしないで何か別の楽しいことをし始めるに違いない。生殖という行為は、愛から遠く離れた場所に位置している。
・人々が「愛」だと勘違いしているものの正体は「発情」だ
生殖したいと感じるのは、愛しているからではなく、発情しているからではないだろうか。愛していなくても生殖できることは明白だ。男性の中にはお金を払って見知らぬ女性と生殖する人もいる。見知らぬ者同士なのだからそこに愛なんてあるわけがない。そこにあるのはひとえに男性の性的な発情のみである。また人間は知っている人同士でたとえ愛し合っていなかったとしても、気軽に生殖することだってできる。そこにも愛はなく、やはり見えるのは動物的な発情である。たとえ生殖する前に「愛している」と心の中で激しく感じ、生殖の間に「愛している」と囁き合ったとしても、その「愛している」の言葉の先に生殖を求めている時点で、その「愛している」の正体は発情である。
このように人は自らの単なる動物的な発情の衝動を「愛」という名前だと勘違いして、「愛」と名付けたばっかりに自らの発情を崇高な種類の感情だと間違って、挙げ句の果てには「愛しているのにどうして」などと尊いものを踏みにじられたような気分に陥り、傷ついたり嘆いたりしてしまうのではないだろうか。
ということはたとえ生殖したとしても、その人が自分を愛している証明にはならないということになる。生殖したということは発情された証明にはなるが、愛されている証明では決してないのだ。愛と発情を脳内でごちゃ混ぜにして、生殖したのにどうして愛されていないのだろうと傷ついてしまう前に、愛と発情をしっかりと区別しながら生殖行動を営むべきである。生殖では、愛は全く測れないのだ。
・本当の愛と発情の狭間で
人は一生のうちで果たしてどれだけ人を、本当に愛することができるのだろう。この人を激しく愛していると思い込んでいても、そのお返しに愛されなければ悲しかったり、生殖してくれなければ満たされなかったりして、結局それは単なる動物的な発情だと判明することはしばしばある。人は一生のうちで果たしてどれだけ赤の他人を、愛することができるのだろう。本当に純粋な気持ちで、清らかで透明な心で、愛すべき人をさがすときには、与えたい魂を察知するためには、性欲や発情というのは最も誤差を生じさせる障害ではないだろうか。
肉体の仕組みによりとめどなく生産される性欲や発情に惑われ、ぼくたちは本当に出会いたい魂の姿を見失ってしまう。されど性欲や発情がぼくたちにもたらす野生的で根源的な幸福や快楽を憎むこともできずに、まぁこっちの方が気持ちいいからいいかと真実の愛を探し求める瞳を失って、野生の荒野へと立ち戻ってしまう。ぼくたちの魂が本当に追い求めているものに追いつくための旅路は、まだ果てしなく遠い。
・発情による生殖から愛が生まれる可能性は残されている
愛があるから生殖するのは嘘だったとしても、では生殖から愛を導き出すことは可能だろうか。それは可能だろうというのがぼくの意見だ。ぼくたちは発情の結果としての生殖により、新しい命を生み出す。新しい命に対して、無償の愛を捧げてしまうのは人間としての根源的な愛の表現ではないだろうか。
ただ生きていてほしい、ただすくすくと育ってほしい、何も返されなくてもこの子を幸せへと導きたいと慈悲の心を抱いてしまうのが、親としての愛の心だ。それがたとえ遺伝子に仕組まれたものだったとしても、本能によって操られているのだとしても、何を返されることも望まない無償の愛を自分の心の中に感じ取られるというだけで、愛に触れる意味は十分にある。そしてたとえ見返りを求めていなくても、無償の愛を注がれて育った子供は、やがて親にも幸せになってほしいと無償の愛を返すようになるだろう。
このように愛から生殖が実行されることはないが、生殖から愛が生まれる可能性はあり、その点において愛と生殖は関連していると言うことができるかもしれない。
・三島由紀夫「美しい星」
愛と生殖とを結びつけたのは人間どもの宗教の政治的詐術で、ほかのもろもろの政治的詐術と同様、羊の群を柵の中へ追い込むやり方、つまり本来無目的なものを目的意識の中へ追い込む、あの千篇一律のやり方の一つなのだね。