誤解される人が悪いというのは本当か?
・悪口を言われやすい人々
・悪口を言う人々
・誤解される人ほど美しい
・自作詩「浮世ばなれ」
・悪口を言われやすい人々
世の中には悪口を言われやすい人というものが存在する。誰も彼もが彼を悪く思っているわけではないだろう。けれどみんなが彼の悪口を言う。それは周囲の人々が、自分自身の考えをなかったことにして、強い人々の意見に同調しているからに過ぎない。人間の悪しき習いであるように感じる。これはまるで、小学生の子供の教室で起きそうな出来事であるが、驚いたことにこのようなことは、大人になってからの社会でもよく見る。人間の愚鈍さは、時間によって取り除かれる種類のものではないようだ。
ぼくは悪口を言われている人が好きだ。世の中に誤解されているような人が好きだ。それでも必死にこの世の中を生き抜いている、その魂の色が好きだ。逆に悪口を言い合っている大人たちは、悪口を言われている人よりもはるかに醜く、愚かな動物に見えてくる。そのようにしか社会の中で自分を保てない存在に、憐憫の情さえ禁じ得ない。
悪口を言われている人は、ちょっと変わった人が多い。みんなと違った人が多い。そして少し不器用である。不器用だから周囲になじめず、おかしな誤解を生み出させてしまう。けれど実際に話してみると、決してみんなが言うような悪い人ではない。むしろ純粋で綺麗な魂の色をしていることが多い。考えてみれば、すべての面が悪い人間なんていないのだから、その人の悪口を言いふらすということは、自らの視点の狭小さを言いふらしているに過ぎない。実に虚しい自己暴露であるように見受けられる。
・悪口を言う人々
悪口を言われない方が、ちょっとどうかしているとぼくは思う。実際に自分に正直に精一杯生きて、悪口を言われない人なんているだろうか。ある程度自分自身を押し殺して生きているから、誰にも気にされず、悪口も言われないだけではないのか。器用に人々の間を差し障りなく生き延びて、耐えているだけではないのか。それでしか生きられないというのなら、それもよかろう。けれどそのストレスが悪の方向へと向かうと、そのような器用な差し障りのない人々が、標的を見つけて影で醜い悪口を言い始める。実際に悪口を言い合っているのは、そのように器用に世の中を立ち回っている、心の中が誰かを見下したい思いでいっぱいの人々である。
・誤解される人ほど美しい
悪口を言われるくらいでないと生きている甲斐がない。誤解されるくらいでないと素晴らしい人間にはなれない。ぼくはそう思っている。純粋に生きてしまうからこそ、悪口も言われるだろう。ただ真実を見つめているからこそ、濁った瞳の人々には誤解されるように映るだろう。それもすべて、精一杯自分自身に正直に生きているからこそ。燃えるように生きているからこそ。まるで必死に衆生を救おうとしている不動明王のような顔つきで。
ぼくはこの文章を書いていて、みんなに悪口を言われていたけれど本当に純粋で美しい魂をしたおじいちゃんの医師を思い出した。モスクワから彼に手紙を書こうと思う。心を込めて。
・自作詩「浮世ばなれ」
浮き世など子供だましだと
笑いながら生きていくことが
人間たちにはできはしない
浮き世に絡まりながら生きていく波
はぐれたならば生きてはいけない
逃れたならば後はない
そのようにしておそれは植え付けられ
自分を失いながら生きていく
求められたことを表して
ただ都合のよい生きものになって
そのようにして生きていく先にあるものは
抜け殻のような空洞の未来
死んでもいいから生きていくよ
妬む生き物たち
嫉む生き物たち
彼らの言葉を通り抜けて
いつか死ぬから生きていくよ
この世でうまく生きられなかったとしても
多くの誤解を受けたとしても
それはあなたが美しい証
集団たちの声がしている
同じ色に染まるようにと
誰もが特別になるなと
祈りの声が鳴り響いている
やがて訪れる光の国には
上も下もありはしない
多いも少ないからも解き放たれ
ひとつの光だけがそこにある