中島みゆき夜会「橋の下のアルカディア」のあらすじと曲目と考察!社会の幸福は個人の犠牲によってしか成り立たないというのは本当か?
・「みずいろてすと」による集団と個人の幸福の考察たち
・集団と個人の幸福を追求すると突き当たる中島みゆきの夜会「橋の下のアルカディア」
・夜会「橋の下のアルカディア」の中島みゆき公式インタビューの内容
・中島みゆきによる夜会「橋の下のアルカディア」の序文
・中島みゆき「橋の下のアルカディア」収録曲
・橋の下には集団を外れた異界の者たちが集まる
・江戸時代における人身御供の悲劇
・人身御供を行う江戸時代が野蛮な時代だというのは本当か? 〜第二次世界大戦〜
・3つの魂のそれぞれ無念と後悔
・集団の幸福は個人の犠牲によってしか成り立たないというのは本当か?
・個人の幸福が集団の幸福となる夜会「橋の下のアルカディア」の答え
・個人の幸福を集団の幸福へ導くための条件
目次
- ・「みずいろてすと」による集団と個人の幸福の考察たち
- ・集団と個人の幸福を追求すると突き当たる中島みゆきの夜会「橋の下のアルカディア」
- ・夜会「橋の下のアルカディア」の中島みゆき公式インタビューの内容
- ・中島みゆきによる夜会「橋の下のアルカディア」の序文
- ・中島みゆき「橋の下のアルカディア」収録曲
- ・橋の下には集団を外れた異界の者たちが集まる
- ・江戸時代における人身御供の悲劇
- ・人身御供を行う江戸時代が野蛮な時代だというのは本当か? 〜第二次世界大戦〜
- ・3つの魂のそれぞれ無念と後悔
- ・集団の幸福は個人の犠牲によってしか成り立たないというのは本当か?
- ・個人の幸福が集団の幸福となる夜会「橋の下のアルカディア」の答え
- ・個人の幸福を集団の幸福へ導くための条件
・「みずいろてすと」による集団と個人の幸福の考察たち
このブログ「みずいろてすと」では、世の中で言われている常識や正しさが本当に正しいのかを解明すべく、「集団と個人」をテーマとして様々な記事を書き続けてきた。
・集団と個人の幸福を追求すると突き当たる中島みゆきの夜会「橋の下のアルカディア」
集団と個人の関係性を突き詰めて考えた時に、偉大な芸術作品に遭遇する。それは中島みゆきの夜会「橋の下のアルカディア」である。中島みゆきの夜会とは、彼女が作詞、作曲、脚本、主演、歌の全てを担うという、世界でも例を見ない彼女のライフワークである。夜会は回ごとにテーマが決められているが、この夜会「橋の下のアルカディア」の根幹には”集団と個”に関する思想が込められていることは、中島みゆき本人が公式インタビューで語っている。
・夜会「橋の下のアルカディア」の中島みゆき公式インタビューの内容
「今回は、テーマが”捨てる”なんです。”捨てる””捨てられる”その両方ですね」
「日本人ならきっと橋の下の記憶はあると思うんです。
橋の下。子供の頃に言われた覚えがないですか。
「お前は橋の下で拾ったの」「お兄ちゃんは?」「橋の上」みたいな。
なぜか捨て子は橋の下だった。”捨て子のアルカディア”ですね」
「「今晩屋」のテーマは”逃げる”。「2/2」のテーマは”人殺し”でしたからね。
別におどろおどろしいお話じゃなくて、半分はコメディなんですよ(笑)」
「台本書きと一緒に歌を書いていますからね。歌を書くこと自体がストーリーを書くことですし。舞台で使われている曲だというのを明かさないという考え方もできるんですけど、初日をやればすぐに分かるでしょう。だったらそう書いておこう。予習をしてい頂けるでしょうからね」
「でも、今回は過去最多、46曲ありますからね。これは氷山の一角。ミュージシャンが呆然としています’(笑)」
「匠さんは、面白い声でロックな人なんでどんな歌になるんだろうと思ってます。
ポスターには猫が写ってますけど、あれが中ちゃん。猫なんです」
「ごく簡単に言ってしまえば、引き離された猫と女とその夫がもう一度出会うまでの話ですね。引き離す側に加わったのが多数の人間の力。
人間が多数派になって行く時に個を犠牲にして自分も意志を失って狂ってゆく。
そうやって引き離された3人をもう一度一緒になる時に解決できるのが、集団から離れた人間、もしくは集団を捨てた人間。集団が個を捨て、個が集団を捨てる。そんなお話かな(笑)」
・中島みゆきによる夜会「橋の下のアルカディア」の序文
この地が昔々、どんな地形であったかということなど、
今では誰も知らずに、住んでいる。
この地で昔々、どんな出来事があったかということも、
今では誰も知らずに、踏みつけている。この、うらぶれたシャッター街と化した地下道が、
かつて防空壕だったことも、
今では誰も知らずに、通り過ぎてゆく。
線路や道路を支える、頑丈な橋脚の足元深く、
朽ちかけた木製の橋脚の名残があることも、
その河に、かつて人柱(ひとばしら)が沈められたことも、
今では知る人もない。くり返される、人間たちの愚かさの波のたびに、
残された無念、残された誓い。
約束は時を耐え、飛び立つ時を待って、
生まれ変わり、縁は続いて巡り会い、
時は現代。
かつての人身御供、
かつての夫、
かつての猫。思い出せない誓いに導かれて、
三人はこの地に同居する。
しかし三人は、まだ知らない。
未曾有の豪雨が来る時には、この地下道が
ふたたび河底に還るということに……
・中島みゆき「橋の下のアルカディア」収録曲
1 なぜか橋の下
2 水晶球(すいしょうきゅう)
3 謎(なぞ)な女
4 問題集
5 いらない町
6 失(う)せ物(もの)探し
7 恋なんていつでもできる
8 いちど会ったらどうかしら
9 大きな忘れ物
10 猫なで声プリーズ
11 川の音が聞こえる
12 一族
13 昔々あるところに
14 捨て子選び
15 すあまの約束
16 男の仕事
17 身体の中を流れる涙
18 男の仕事
19 みのむし(鬼の捨て子)
20 私と一緒に
21 猫籠(ねこかご)
22 人柱(ひとばしら)
23 人間になりたい
24 問題集
25 身体の中を流れる涙
26 どうしてそんなに愛がほしいの
27 雨天順延
28 ペルシャ
29 袋のネズミ
30 シャッター街
31 恋なんていつでもできる
32 雨天順延
33 二雙(そう)の舟
34 水晶球(すいしょうきゅう)
35 一族
36 呑んだくれのラヴレター
37 一夜草(いちやそう)
38 毎時(まいじ)200ミリ
39 いらない町
40 呑んだくれのラヴレター
41 猫にだけ見えるもの
42 国捨(くにす)て
43 India Goose
44 私と一緒に
45 India Goose
46 なぜか橋の下
・橋の下には集団を外れた異界の者たちが集まる
夜会「橋の下のアルカディア」の中では、主に2つの時空を行き来する。すなわち今ぼくたちが生きている現代の時代と、”天明の大飢饉”が起こったとされる日本の江戸時代である。
現代の舞台では、橋の下の店で占い師をしている橋元人見(中島みゆき)と、橋の下のBarねんねこ代理ママを務める豊洲天音(中村中)、橋の下を見回るガードマンとして働いている高橋九曜(石田匠)の3人が登場する。橋の下のうらぶれたシャッター街に寄り付く人などおりもせず、利用期限が終了している橋の下の店から人見と天音を立ち退かせようとガードマンの九曜がおりてくる日々が延々と続くばかり。しかし2人を追い出す使命を担っている九曜も、実は死んだ親の模型飛行機店が橋の下に残されており、閉店された模型飛行機店に入っては仏壇にお焼香をあげる日々が続いた。
九曜がいくら立ち退き命令が出ている橋の下から人見と天音の2人を追い出そうとしても、「いらない町」の歌詞にある通り”明日を求めぬ奴”としての世捨て人の2人は橋の下から決して出て行こうとしない。この2人に限らず橋の下にやって来る者は、銀行強盗や暴力団など人間集団から外れたもしくは外された、人間集団を捨てたもしくは捨てられた人たちばかりなのだった。橋の下に集う者たちは、集団を捨てた者だろうか、集団から捨てられた者だろうか。その2つに、違いなどあるのだろうか。
橋とは本来”端”の意であり、村や集落などの外れ、境界線を意味していた。古来より境界には様々なこの世ではない異界の者、まれびと、世捨て人、芸能者、ならず者など、正常な社会的人間集団の範疇を超越した力を持つ人々が集まったとされる。この夜会ではそのような知識や直感が十分に発揮されているように感じられる。
・江戸時代における人身御供の悲劇
舞台はいきなり変わり、川水が氾濫し洪水が発生して人々が苦しめられている”天明の大飢饉”のさなかの江戸時代へとタイムスリップする。江戸時代にもかつてのこの場所には、木造の橋がかけられていたようだ。
江戸時代の人々はいつまでも続く大飢饉や洪水は神の怒りに違いないと感じ、人柱(ひとばしら)を立てることで神の怒りを鎮めようとした。人柱とは、人間を生きたまま土や水に埋めることにより神々の怒りを鎮めようとする生贄の儀式の一種である。村人たちによって生贄に選ばれた女性(中島みゆき)には愛する夫(石田匠)と、いつまでも一緒にいたいと願うほどに可愛がっていた猫(中村中)がいた。
集団の幸福(大飢饉や洪水が鎮まる)のためならば個人の幸福や命までも奪い去ろうとする人間集団の狂気に恨みと真理を投げかけ、人柱に選ばれた女性は人間集団を睨みつけながらこう歌う。
”荒れ狂う流れは 水じゃなくて人です
止めることのできない 嵐は人です”(歌:私と一緒に)
女性は人柱にされることよりも”いつまでもそばにいよう ふたり離れず”、”約束を交わしましょう 永遠に大好きよ”(歌:すあまの約束)と誓い合った猫と別れる結果となってしまうのがつらくてならず、無念の情を抱いている。しかし”私と一緒にいたならば おまえまで捨てられる 別れはひとときつらいけど おまえだけ逃げなさい”(歌:私と一緒に)と言って涙ながらに、猫が追いかけてこないように猫を猫籠に閉じ込める。”生きて 生きて 逃げて 逃げて いつかきっと必ず会おう 忘れないで どんな変わり方をしても思い出してね”(歌:私と一緒に)の歌詞にあるように、女性と猫は時も命も超えた未来の来世でまた出会うことが暗示されている。
猫は猫籠の中で、ずっと一緒にいようと誓い合った女性が人柱にされるのを目の当たりにして大いに泣き狂い歌う。”人間になりたいな 人間になりたいな 猫なんかでなければ あの子を守れたのかもしれない”(歌:人間になりたい)。猫にはずっと一緒にいようと誓い合った女性を守れなかったという後悔の念が魂にまで刻まれてゆく。この時の思いが来世で猫を人間に転生させるほど強いものだったことが示される。
一方女性の夫は、村人たちの集団の命令により自分の愛する妻を人柱へと導かなければならないという役目を任されて絶望する。しかし男性というものは女性よりもより社会的な生き物であり、自分の妻を生贄に捧げなければ集団への忠誠を示せないと心を引き裂かれる思いで女性を人柱へと導いてゆく。”汚れ仕事は男の役目 憎まれごとは男の仕事”(歌:男の仕事)と歌いながら、男として集団に所属する社会的人間の部品であることの苦しさが描かれている。夫には集団に翻弄されるあまりに、自分の愛する妻さえ守れなかったという自責の念が魂に刻み込まれた。結局女性が人柱として水に沈められた後に、夫も川に身を投げて自殺してしまう。
人間集団の末端に位置する個人を抹消し、神に捧げれば集団が幸福になり救われるという人身御供の思い込みもしくは習慣のせいで、3つの命はそれぞれ無念を残しながらそれぞれ魂の旅の出離を果たすのだった。しかしそのようなかつての深い縁や誓いが3つの魂を集合させ、記憶を失くしても、姿を変えても、生まれ変わっても、3人の魂がまるでそこから動くことを縁や定めによってゆるされていないように、現代においてもまた橋の下で巡り会っていたのだった。
江戸時代で人間集団に翻弄されそれぞれの幸福を根こそぎ奪われた経緯があればこそ、現代で3人は人の世を捨て人間集団から捨てられた、もしくは人間集団を捨てた身の上として描かれているのかもしれない。またそのような魂に似つかわしい、異界の者が集まる”端”としての橋の下に集合するように運命付けられていたのかもしれない。
・人身御供を行う江戸時代が野蛮な時代だというのは本当か? 〜第二次世界大戦〜
人柱、生贄、人身御供をするなんて江戸時代はなんて野蛮な時代だったのだろう!江戸時代なんかに生まれなくて本当によかった、現代に生まれて本当に幸運だったと安心してしまうかもしれないが、どんなに時代が進んでも、どんなに科学技術が進歩しても、人間の愚かな本性はそう変わらないものであることがこの夜会の中では暗示されている。
それはごく最近に起こった第二次世界大戦という戦争についてだ。ぼくたちは現代の戦争においても、国家という集団を守るために国民という個人が自由と幸福を奪われ、国家の勝利のために多くの命は犠牲となり、人間集団を守るためにお国に命は捧げられた。
とりわけ具体的に夜会で描かれているのは、第二次世界大戦で脱走兵となった九曜の祖父についてだ。九曜の祖父は飛行機が大好きであり、おそらくそれに生きる幸福を感じていた。しかしそのような人間個人の幸福を、国家という集団が無残にも蝕んでゆく。九曜の祖父は飛行機を愛するあまり、飛行機を人殺しの道具とさせられることに我慢がならず、国家という集団のために自分個人の信条を曲げることなく、飛行機で人殺しをすることに反対するという信念を持って脱走兵となったのだった。すなわち個人的な思いや愛着や信条を理由に、国家という集団から外れて生き延びたのだった。それは世間ではただ単に死ぬのが怖かった臆病者の裏切り者と罵られて噂されたことだろう。しかし彼が心に抱いたものはもっと神聖な、個人としての願いを貫くためにどんなに傷つけられてでも集団へと魂を売らない強い覚悟だったのだ。
”この世の恥とは何ですか 御国の恥とは何ですか
身内の恥とは何ですか 心の恥とは何ですか
空ゆく数多の翼には 憧れ抱かせる光がある
この世のすべての翼には ただひとつだけの使命がある
ただの裏切りと 記録は示すだろう
国を捨てながら逃げた臆病者
私の願いは空を飛び 人を殺す道具ではなく
私の願いは空を飛び 幸せにする翼だった”(歌:国捨て)
夜会「橋の下のアルカディア」の最後の場面ではこの「国捨て」を堂々と歌い上げながら、九曜がどう見ても日の丸(国家という人間集団の象徴)にしか見えない血の滲んだ包帯を頭から取ってどこかへと投げ捨てる。祖父がそうしたように、国家という人間集団と決裂し個人的な願いの中を燃えるように生きていくことの暗示で舞台は満たされてゆく。
・3つの魂のそれぞれ無念と後悔
3つの魂にはそれぞれ無念や後悔が刻まれていた。それは死んでもなお消えることなく、来世でも引き継がれた誓いや願いだった。
女性:猫とずっと一緒にいると約束したのにその約束を守れなかった
猫:人柱にされていく女性を、猫籠の中の猫であるゆえに守ることができなかった
夫:人間集団の言いなりにならざるを得ず愛する妻を守れなかった
それぞれの無念は「橋の下のアルカディア」の最後の場面で救済されてゆく。中島みゆきの夜会では大抵最後に魂の救済が描かれているものの、今回は1つの魂の救済ではなく3つであり、さらにそれぞれが独立しているわけではなく、互いに関係性を持っているから救済は複雑な様相を呈していく。
江戸時代の村という人間集団の幸福のため犠牲にされ根こそぎ奪い取られた3つの個人的な幸福は、どのように救済されるべきだろうか。人間集団がその幸福のために抹消にあった3つの個(女性と夫と猫)を捨て去ったように、今度はその3つの個体が勇気を出してもしくは運命的に、人間集団から独立して、すなわち今度は逆に人間集団を捨ててしまって、その先にある個人的な願いや思いと究極的に追求すべきなのではないだろうか。
・集団の幸福は個人の犠牲によってしか成り立たないというのは本当か?
普通人間集団を構成する個人が、自分の願い通り、思い通りにそれぞれ行動してしまうと、集団としての統制がとれなくなって、集団としての平和や幸福が破綻してしまう。集団が自らの平和と幸福を保つために必要なことは、集団を構成している個人が自分の思いや願いを持たず、また自分の頭で考えて自分の意見を主張せず、ただ目上や集団から言われるがままに大人しく従順に命令に従い、都合のよい部品として個を扱えることだ。集団のためというならば個人は自らの思いを持たず、願いを持たず、ただそれぞれがお互いに他人の目を気にして、集団から捨てられることをおそれて大人くし従順な性格となるように教育されるべきである。
ぼくたちはせっかくこの世に生を受けて、自らの炎や直感や好きなことに向かって突き進んでいくような少年的な幸福を達成したいはずなのに、いつしか”教育”されて自らの炎の色を忘れてゆく。あらゆるすべての個人が自らの思いや願いを追求し人生に幸福を見出した際には、彼らの所属する集団は平和と幸福を喪失してしまう。集団の平和と幸福は、個人の幸福を踏みにじって犠牲にしたところに成り立っている。
しかし本当に人間社会はこれでいいのだろうか。個人の徹底的な幸福が、集団の徹底的な幸福へとつながる道はないのだろか。中島みゆきの「橋の下のアルカディア」は最後の場面でその風景を徹底的に描写している。すなわち、村や国家のようなあまりに構成要員の多い人間集団の幸福は、すべての個人の幸福の先には決してないけれども、今回の場合のように人間集団が3人だった場合、魂が3つだった場合には、あらゆる個人の願いの追求の先に集団の幸福もあり得るという示唆に富んだ描写である。
・個人の幸福が集団の幸福となる夜会「橋の下のアルカディア」の答え
夜会「橋の下のアルカディア」の最後の場面では、江戸時代の場面にも似た未曾有の豪雨が発生し、”捨てられた町”としての橋の下のシャッター街は放水路として利用されるようになる。それに気づかなかった人見ら3人は橋の下に閉じ込められてしまう。放水が始まってしまえば命はなくなり、一刻の猶予もままならない状態。そんな危機的状況の中で、3人は突如としてそれぞれの前世を思い出す。すなわち人見は江戸時代の女性だったことが、天音は江戸時代女性と仲良しだった猫のすあまだったことが、九曜は人柱となった女性の夫だったことがありありと思い出されるのだ!
猫の感覚を取り戻した天音は”猫にだけ見える道”(歌:猫にだけ見えるもの)を探し出し、3人はそこに脱走兵であった九曜の祖父が残した巨大な飛行機を発見する。この橋の下はかつての防空壕だったのだ!この飛行機を駆使してなんとか3人で橋の下から逃げようとするが、ここで突如として前世の記憶が蘇った3人の無念や願いや誓いが、それぞれの行動を支配していく。すなわち九曜は今度こそ人見を助けたい、人見は今度こそ天音と決して離れたくない、天音は今度こそ自分が犠牲になってでも人見を守りたい。
3つのそれぞれの無念と願いと誓いが複雑に絡まり合い、すべての個体の願いが叶う平衡状態(3人で構成された集団の幸福)は見つけられないようにも思えたが、それぞれがただ自分の思いのままに、自分の願いのままに、集団のことも他人の目も何も気にせずにただただ自らの思いに究極的に忠実になった瞬間、3つの願いがピタッと一致して、すべての個体の願いが叶い、すべての個体の幸福が叶い、その結果3人で構成された集団の幸福さえ叶うという状態へと落ち着くことができた。3つの無念は浄化され、3つの魂は昇華され、3人で構成された集団の幸福は立ち上がる。その状態こそが最終的な「橋の下のアルカディア」の答えだった。
・個人の幸福を集団の幸福へ導くための条件
本当はこの世では個人の幸福が集団の幸福へと繋がり、集団の幸福が個人の幸福へと導かれることが理想的だ。しかし人間界ではそれと真逆のことが発生し魂は憂い惑っている。ぼくたちは個人を幸福にして集団を不幸にするか、個人を不幸にして集団を幸福にする道しか残されていない、不完全で矛盾に満ちた生き物なのだろうか。個人の徹底的な幸福の追求が、集団の徹底的な幸福の追求につながるという奇跡は起きないのだろうか。ぼくには夜会「橋の下のアルカディア」の根底にそのような深い思案が流れているように感じられる。
あらゆる個人が徹底的に自分の幸福だけを追求した後に、集団の幸福が訪れることはあり得る。しかしそれはあらかじめ集団から抜け出しているさまよえる魂である必要があるし、おそれを抱いて巨大な人間集団のぬるま湯に浸っているような種類の人間には与えられない奇跡の風景なのかもしれない。個人の幸福が集団の幸福となるためには、せいぜい3人くらいの少数集団であることが望ましいというささやかな暗示も含まれているのだろう。
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