利己的に生きよう!自分のために生きることは悪いことで、他人のために生きることこそ素晴らしいというのは本当か?

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ぼくはぼくの魂を、救い出さなければならない。

利己的に生きよう!自分のために生きることは悪いことで、他人のために生きることこそ素晴らしいというのは本当か?

・自分のために生きることは悪いことで、他人のために生きることこそ素晴らしいというのは本当か?
・自分も他人もたったひとりの人間という観点から言えば、異なることは何もない
・ぼくはぼくを、幸せにするために生まれてきたんだ
・他人は他人を、裁いてはならない
・ぼくはぼくの魂を、救い出すためにこそ生きていく

・自分のために生きることは悪いことで、他人のために生きることこそ素晴らしいというのは本当か?

人間の世の中では、他人のために何かをすることが常に賞賛される傾向にある。例えば人間が人生でその大半の時間を費やすべきだとされている「労働」という行為も、他人のために何かをするということに他ならない。他人のために生き、他人の役に立つことをし、他人に喜ばれることをすることこそ、人間の進むべき道だと人の世では常に推奨されている。

一方で自分のために何かをすることは、いつも見下される傾向にある。自分のことしか考えていない人のことは「自己中心的」「ジコチュー」だと名付けられてしばしば蔑まれる。自分だけのために生きるんだと宣言したならば、人間として出来損ないのようなかわいそうな目で見られる傾向にある。また自分を愛したり、自分を好きになったり、自分を大切に思う人のことは「ナルシスト」として嫌悪される。ぼくたちは自分のことを、大切にしたいんだと言いにくい世の中で生きている。

「他人のため」という言葉ならば、正しい顔つきをしていくらでも世の中で叫ぶことができるだろう。「ぼくは他人のために生きていく」「ぼくは他人を大切にする」「ぼくは他人の役に立ちたい」「ぼくは他人のことだけを考えて思いやって日々を過ごす」「ぼくは他人を幸せにしたい」いずれも人間として模範的な、正当な、優等生的な意見である。このようなことを常に言えばまともな人間として見なされるし、賞賛されるし、異常な人間だと思われることもないだろう。しかしこの他人を自分にすり替えたところで、途端に奇妙な雰囲気を醸し出す。

「ぼくは自分のために生きていく」「ぼくは自分を大切にする」「ぼくは自分の役に立ちたい」「ぼくは自分のことだけを考えて思いやって日々を過ごす」「ぼくは自分を幸せにしたい」と目の前の人に言われたならば、ちょっとこの人、人としてヤバいんじゃないのと誰もが遠ざかってしまうだろう。それほどに他人のために生きることは素晴らしく、自分のために生きることは愚かなことだと、人の世では認識されているということだ。しかし本当に自分のために生きることって、それほどまでに悪いことだろうか。

 

 

・自分も他人もたったひとりの人間という観点から言えば、異なることは何もない

そもそも自分と他人という言葉を入れ替えただけでこんなにも文章の意味合いが違ってくるというのは奇妙なことだ。なぜなら自分というものも、他人というものも、単なるひとりの人間に過ぎない。つまり自分というものも、他人というものも、何ひとつ変わらない人間という個体でしかないということだ。例えば自分という人をAさん、他人という人をBさんとしてみたならばわかりやすいだろう。「ぼくは自分を幸せにしたい」は「ぼくはAを幸せにしたい」となり、「ぼくは他人を幸せにしたい」は「ぼくはBを幸せにしたい」となる。

「ぼくはAを幸せにしたい」という文章と「ぼくはBを幸せにしたい」という文章を比較していただきたい。どちらかが賞賛されるべきで、どちらかが見下されるべきだなどと感じるだろうか。いや、感じるはずがない。なぜならばどちらもたったひとりの人を幸せにしたいと純粋に願っているからだ。たったひとりの人を幸せにしたいとただ思いやり純粋に願う人の気持ちは、どのような形であれ美しいに決まっている。しかしこれがなぜ「自分」と表現されると見下され、「他人」や「あなた」などと表現されると途端に賞賛されるのだろうか。

人間というものは自分とか他人とかいう概念に心を惑わされ過ぎているのだ。どちらも何も変わらないたったひとりの人間ではないか。「ぼくは自分を幸せにしたい」も「ぼくは他人を幸せにしたい」も、どちらもたったひとりの大切な人を護り抜き、純粋に幸せにしたいという切なる願いの込もった美しい言葉だ。この2つに、本当に違いなどあるだろうか、いや、あるはずがない(反語)。人間は自分と他人を意識の中で無理矢理に常に分け隔て、世界を切り裂き、分別をつけることによって、逆に本質や真理を見失い、見誤り、愚かな迷妄の世界へと迷い込んでいるのではないだろうか。

 

・ぼくはぼくを、幸せにするために生まれてきたんだ

ぼくたちはもっと、自分のために生きていくと胸を張って言ってもいいはずだ。ぼくたちは自分のために生きていく、ぼくたちは自分を幸せにする、ぼくたちは自分を大切にする、ぼくたちは自分を護り抜く、ぼくたちは自分を愛していると、愚かな洗脳と迷妄の世界で苦しんでいる者たちのことなどふり返ることなく、高らかに宣言することを許されるべきである。なぜならばそれは、他人のために生きるということと同等な価値を確実に持つからである。

ぼくはぼくを、幸せにするために生まれてきたんだ。

 

 

・他人は他人を、裁いてはならない

その人がどんなに深い傷を負っているか、他人などにわかるだろうか。

その人がどんな悲しみを注がれているか、他人などに見えるだろうか。

その人がどうしようもない運命を背負いながら生きていると、他人などに見抜けるだろうか。

他人は他人のことを、何も知らない。

だから他人を裁いてはならない。

あなたの悲しみがあなたにしかわからないように、彼の悲しみは、ただ、彼だけのもの。

彼の悲しみがあなたの悲しみと同じだと、自惚れてはならない。

彼の悲しみなどあなたの悲しみより軽いだろうと、思い上がってはならない。

他人は他人のことを、何も知らない。

だから他人を裁いてはならない。

もしかしたらあの人は生きているように見えて、死んでいるのかもしれない。

終わりなき悲しみを永遠に注がれて、魂が死んでしまったのかもしれない。

 

 

・ぼくはぼくの魂を、救い出すためにこそ生きていく

いつかぼくは、どうしようもない運命に砕かれて、魂を殺された。だからぼくは、ぼくのために生きなければならない。ぼくはぼくの魂を救うために、歩き出さねばならない。他人のことなんてどうだっていい。世の中のことなど取るに足りない。自分の魂さえ息をしていないのに、他人の声が聞こえるはずがない。

ぼくの使命は、ぼくの魂を護り抜くことだった。だけどそれは叶わなかった。ぼくはあまりにも無力で、あまりにも卑小で、ぼくよりもはるかに偉大で揺るぎない存在に、ぼくは魂を殺されてしまった。ぼくはぼくを、かばい切れなかった。ぼくはぼくを、守り抜けなかった。それでもぼくの生命の使命は、まだ終わらない。ぼくはぼくを、幸せにしてやるんだ。ぼくはぼくの魂を救済し、いつの日か、よみがえらせてみせよう。

ぼくはいつからか、自分は幸せになれないと感じていた。ぼくなんていなくてもいいと思った。ぼくは生まれてこなくてもよかったと信じた。そしていつも心は泣いていた。

だからぼくは、ぼくのために生きるよ。他でもないぼくだけのために。ぼく自身のために。他人のために生きなければ人間ではないという愚かな指摘を根源の炎で焼き尽くし、ぼくも他人もない世界でぼくを抱きしめよう。

ぼくはぼくに、生まれてきてよかったと言わせるんだ。ぼくはぼくに、生きてきてよかったと思わせるんだ。ぼくはぼくに、生きていてもいいんだと笑わせるんだ。それ以外には、何もいらない。それだけが、ぼくのたったひとつの使命だ。神秘的な生命の使命を、他人が決して裁いてはならない。

 

 

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