見返りを求めずに与え続ける者たちよ。
労働していない無職の人は役立たずで社会のお荷物だというのは本当か?
・労働とは他人の役に立つ行為
・おばあちゃんのお世話
・友達のための運転
・スペイン巡礼の受難
・労働ではなく人の役に立つ尊さ
・労働していない無職の人は全くの役立たずであるというのは本当か?
・労働とは他人の役に立つ行為
労働というのは大抵、誰かの役に立つということだ。スーパーの店員とか、駅のトイレの清掃員とか、タクシーの運転手とか、医者とか、労働する人はみんな誰かの役に立っている。労働とは他人がやってほしいと願う仕事をこなすことによって、その仕事のために自分の人生のかけがえのない時間を捧げることによって、そのお返しとして生きていくためのお金(=給料)をもらえるという仕組みになっている。
他人の役に立つこと、人助けをすることこそが、労働という媒介を通して、給料となり、自分が生きて行くための米や野菜や衣服になることで、他人の役に立つことが結局自分の生命維持に役立つこととなり、経済の流れは加速していく。生きていかなければならない、未来を生きていきたいぼくたちにとって、労働とは半ば強制であり、他人の役に立つことを強制されながら、自分に限られた生きるというかけがえのない時間を他人へと惜しみもなく捧げている。
ぼくたちは自分が生きるために、自分のために自分の生きる時間を費やすのではなく、他人へと費やすことにより自分自身を生かすというシステムに知らず知らずのうちに飲み込まれ、経済というお金の川は流れていく。それでは、労働というものは大抵必ず他人の役に立つものだが、他人の役に立つことをすれば必ず労働と見なされお金をもらえるのだろうか。
・おばあちゃんのお世話
ぼくは今実家にいるので近くのおばあちゃんの家をよく訪ねる。昔からおばあちゃんっ子でおばあちゃんが大好きだから会いにいくのだが、一人暮らしのおばあちゃんの話し相手になったり、運動のためのお散歩に付き合ったり、重い荷物の買い物をしに行ったり、銀行でお金を下ろすのを見守ったりして、一応おばあちゃんの役に立っている。
もしもぼくがどこかから派遣された介護の人だったならば、ぼくはおばあちゃんのお世話という労働をしたと見なされ、お給料を支払われるだろう。しかしぼくは決しておばあちゃんの役に立ってもお金はもらえない。それはぼくとおばあちゃんが家族であり、血縁があり、家族が思いやりの行為をしているにすぎないからだ。同様にもっと大変なお風呂やトイレなどの介護をする必要が生じたとしても、家族がそれを行うのならば、人の役に立っているにも関わらず、誰も給料なんてくれないだろう。
・友達のための運転
ぼくは車を持っているので、よく友達と車で出かけたりする。ぼくの車なので当然ぼくが運転する。ぼくが車を出し、ぼくが長時間運転したことの労いとして、大抵の友達はガソリン代を半分出してくれたり、ご飯代をおごってくれたりするが、もちろんそれ以上のことは望まない。
もしもぼくがタクシーの運転手だったならば、長時間運転した労働の給料として、もっともっとたくさんのお金を友達に求めるだろう。車を出し、ずっと運転し続けたのだから、もはやタクシー運転手とやっていることは全く変わらないと言っていい。しかしもちろん運転代を友達に請求することなんてありえない。それはぼくたちが友達であり、多少の自分の労力を費やすことは承諾の上で、楽しく遊びに出かけると決めているからだ。
しかし車を出す、他人のために運転するという全く同じ行為を行なっているにも関わらず、片方には多額の給料が発生し、片方にはほとんどお金が発生しないというのは、よく考えてみれば純粋に不思議な現象であると言わねばならない。
・スペイン巡礼の受難
ぼくは800kmを約1ヶ月かけて歩くという、スペイン巡礼の旅をした。毎日毎日ヘトヘトになるまで歩き続けて、ぼくがスペイン巡礼の道のさなかでぼんやり考えたことは、ぼくはこんなに苦労して運動しているのに、どうしてどこからも給料が発生しないのだろうということだった。
もちろん自分が好き好んであえて果てしなく長い道のりを歩いて旅しているのだから、それは自分のためであり、自分勝手な自分の楽しみであり、他人のためという労働には当てはまらないのだから、給料が発生しないというのは至極当然なのであるが、それにしてもこんなにも頑張っているのに、こんなにも苦労しているのに、お金が発生しないことがなんとなく不思議に感じられたのだ。
もしもぼくの背負っている荷物が他人の持ち物で、もしもぼくが他人の荷物を遠い街へと運ぶ運び屋だったなら、ぼくはその人から給料をもらえたに違いない。ぼくが自分の荷物を持っているだけのただの旅人でも、ぼくが他人の役に立つ運び屋でも、荷物の重さは変わらずに大変な思いをするのに、片方は無料で片方が有料だということが、仮定や想像であるにしてもなんとなく面白かった。労働と労働ではない行為の境界線なんて、結構曖昧なものではないだろうか。
・労働ではなく人の役に立つ尊さ
ぼくたちは労働する。他人のために自分の時間を費やし、他人の役に立って、お給料をもらい受ける。それは当然の報酬であるし、お給料をもらえないのにわざわざ自分の人生の時間を他人のために費やすことなんてあり得ないと、多くの人々が感じるだろう。
しかし、よくよく考えてみればぼくたちの日常には、他人の役に立っているのにお給料をもらえない事象で溢れている。他人の役に立ったならば必ずお給料がもらえるわけではなく、この世にはたくさんの他人の役に立つことがあり、その中の一部特殊な場合に限り、お給料をもらえるということではないだろうか。お給料をもらえる人助けもあれば、1円ももらえない人助けもあり、お給料をもらえるなんて当たり前ではなくむしろラッキーだ。
頑張って我慢して労働してお給料をもらった時の嬉しさは筆舌に尽くしがたいものがある。けれどそれならばお給料をもらえない人助けは助け損だろうか。損得勘定で考えて利益を得られないのならば、人の役に立たない方がマシだろうか。
いや、人間の心はそう単純には作られていないだろう。人の役に立ってお給料をもらうことよりもむしろ、人の役に立っているのに何ももらわない、何もいらない、ただ人の役に立ちたいのだと思っている人の姿を眺めている方が、はるかに幸福な気持ちになれるのはなぜだろうか。生きていくために仕方なく稼ぐお給料だが、そんなものよりも何ももらわず、何も求めず、ただ人を助けた時の方が清々しい気持ちになれるのは、人間の心の面白さではないだろうか。
・労働していない無職の人は全くの役立たずであるというのは本当か?
世の中には労働をしていない人、無職である人を見下し、蔑む気配に満ち満ちているように感じられる。それは人間たちが「労働していない=人の役に立っていない」と決めつけているからではないだろうか。しかしそれは何も思考せずに労働を信仰しすぎではないだろうか。
「労働していない=人の役に立っていない」というのは思慮の浅い思い込みであり、よくよく考えてみれば給料なんかもらっていなくても、人の役に立っている人は大勢いる。経済というお金の川を刺激させ循環させなくても、この世に人助けや思いやりや慈悲の心は大いに存在している。お金なんてもらわなくても、人の役に立ちたいと心から願い、何も見返りを与えられずとも他者に与えている人はたくさんいるのだ。もしかしたらそのような人々の方が、この世の真実に近い尊い感触を受信しているのかもしれない。経済という見えもしない川を流すために、ぼくたちは本当に生まれてきたのだろうか。