個人の幸福と人間集団の幸福が一致しないというのは本当か? 〜相対的幸福と絶対的幸福〜

 

「自分が幸せであること」が「みんなが幸せであること」とイコールなのが理想的だけれど…。

個人の幸福と人間集団の幸福が一致しないというのは本当か? 〜相対的幸福と絶対的幸福〜

・人間は群れを作って暮らす生き物
・個人の幸福と集団の幸福の維持と達成
・個人の幸福と集団の幸福の関係性
・比較することにより人間は人間となり得るが幸福を喪失する
・人間集団の幸福と平和は人間個人の犠牲があって初めて成り立つ
・ぼくたちの聖なる絶対的幸福は集団の中では得られない

・人間は群れを作って暮らす生き物

人間は社会的な動物で群れを作って生きている。お猿さんが進化した動物らしく、お猿さんのように寄り集まって、群れて、お互いに協力し合いながら生活を営んでゆく。その人間集団の最少単位は家族であり、さらにその家族がたくさん寄り集まって過剰な群れとなったのが現代の都会という人間の巣の構造ではないだろうか。

人間の集団が安定するのは36人だという。さらに人間の集団が社会として上手く成り立つのは150人であるらしい(ダンバー数)。それ以上集団に属している人間の数が増えれば増えるほどに、社会は複雑化し、しがらみによる問題は増加し、さらにその解決策を容易くは見出せなくなってしまう。ぼくたち人間は本当は150人くらいの村に住んでいることが幸福なのかもしれない。今の日本はどんなに辺鄙なところでも150人以上はいるだろうし、都会に関して言えば明らかに過剰な人間の群れである。

しかしそのような時代にそのような社会の中に生まれついてしまったのだから仕方がない。まさかもう一度猿に戻るためん150人を引き連れてウッホウッホと森の中へ帰っていくわけにもいくまい。今の問題ばかりの過剰な人間集団の中に生きるということを受け入れて、その中でどのように生き抜いていくかを知恵を絞って考えていくべきである。

 

 

・個人の幸福と集団の幸福の維持と達成

ぼくたちは集団に属し、社会に属するからこそ生きることができる。「自分」という自らの生命が担っているひとつの個体のことも考えて、されどそれによって構成されている集団のことも考えてぼくたちは生きていかなければならない。自分のことだけ考えて思いのまま欲望のまま直感のままに生きていられるのならば気楽だが、そうではなくて自分を取り巻く人間集団のこと、すなわち家族や、ご近所や、市町村や、都道府県や、国家や、さらには地球のことまで考慮することによって、個体は生きていかねばならない。

そのようなことは人間にとって当たり前すぎて気づきにくいが、ぼくたちは”自分という個体の幸福”と”それを取り巻く集団の幸福”の両方を達成し維持ができるように生きていくようにできているようだ。

 

・個人の幸福と集団の幸福の関係性

個人の幸福と集団の幸福は、どのような関係にあるだろうか。理想的には個人が幸福になればなるほどそれが属する集団が幸福になれるのならばそれは最も素敵なことだ。また自分が属している集団が幸福になることにより、自分という個人にも幸福がもたらされるのであればこんなに嬉しいことはない。以上はこの上ない理想だが、真実はどのようになっているのだろうか。

まず家族などの血で繋がっている少数の集団ならば、これを比較的達成しやすいかもしれない。様々な家族の形態や関係性があるものの、基本はお互いを思いやりお互いを愛しているものなので、ひとりのおめでたい出来事をみんなで祝い合ったり、またひとりの悲しみをまるで自分のことのように悲しむことができる。これはお互いを心から思いやっている少数の人間の集団だからこそ成し遂げられる尊い関係性なのかもしれない。家族という人間集団の最少単位の中であるならば「個人の幸福」と「集団の幸福」は、完全とまではいかなくても比較的達成される可能性も高いと言えるだろう。

しかしこれが社会というもっと大きな人間集団の中へと入り込んでいくと、話は随分変わってくる。社会には色々な種類の人がいるし、自分が好きになれる人もいれば嫌いで苦手だと感じる人ももちろん出てくる。好きな人や関係の上手くいっている人には思いやりの心を抱けるものの、あまり関わりのない人には関心を持つことも難しくなるし、嫌いな人に至っては思いやりと逆の感情を抱くことも珍しいことではない。

家族という少数集団の時のように、集団に属する全ての人間を思いやったり愛したりすることは非常に困難になる。人間個人にはそんな余裕もないし、好みだってあるし、相性だってあるし、自分の中で好きな人とどうでもいい人と嫌いな人を分けて、それぞれに自分の分量で適度に接していく他はない。それが世渡りというものだ。

 

・比較することにより人間は人間となり得るが幸福を喪失する

さらに巨大な人間集団の中に属してしまい、家族の中にいた時のように自分が必ずしも他者から愛されたり認められたり許されたりするわけではない感覚を覚えてしまうと、人間という個人をなんとか成り立たせようとして、人間は比較を始める。

自分はこの人よりも頭がいいとか、自分はこの人よりも顔がいいとか、自分はこの人よりも走るのが速いとか、自分はこの人よりも地位が高いとか、自分はこの人よりも年収がいいとか、そのように絶対的ではなく相対的な尺度で自らを測定し、その結果得られるものが”幸福”なのだと感じてしまうようになる。巨大な人間集団に参入することにより、人間の精神は相対的になる。

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比較とは争いの別名であり、人間の本性である。自分が幸福だと感じられないのは目の前のこの人が自分よりも幸福そうな顔をしているからだと思い込み、心密かにその人が不幸になることを願ってみたりする。人間社会の中で、思いやりを持たないどうでもいい他人同士で、お互いがお互いを比較し合い争い合い心密かに憎み合い、比較し相対化することでしか幸福を感じられないと思い込んでいる不幸で愚鈍な魂たちが、常に見下しと戦争を繰り返している。そのように複雑に比較し合い見下し合う人間集団の中で、個人がいくら相対的な幸福を得ようと努力しても、あっちが上がってはこっちが下がる波のような偽物のまだら模様の幸福に苛まれて、その集団全体が幸福の色彩をまとうことなんてあり得ない。

個人がいくら集団というものの中に幸福を見出そうとしても、困難に陥る愚かな理由はここにある。それは人間の比較するという本質に根ざした、どうしようもなく達成されない蜃気楼としての集団的幸福なのだった。

 

 

・人間集団の幸福と平和は人間個人の犠牲があって初めて成り立つ

人間集団の幸福とはなんだろうか。それは集団の内部が争い合わず穏便に平和に営まれ、集団全体で結果的に大きな利益を生み出すことではないだろうか。集団が集団としての幸福を望むのならば、属する個人たちを徹底的に抑え込む必要性が出てくる。

集団に属する個人たちが自分の願いを思いのままに叶えようとそれぞれに行動されては、統率がとれずに人間集団は崩壊してしまうだろう。人間集団を効率的に運営していくためには、それに属する人間個人が、自分で思考することのない愚かさを持ち合わせ、自らの意見を生き生きと主張することもなく、目上から言われたことを大人しく従順にこなし、周囲の空気を読んで調和を乱さない性格に仕上げる必要がある。

国家という人間集団が最も効率的に利益を生み出すために、このようなまるで自らの心を持たないような従順で都合のよい部品としての人間個人を育て上げるために、若いうちから平等に施されるものが「教育」であるということを、先日も記事にした。

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集団が平和を維持し最も効率的に大きな利益を生み出すために、ぼくたち人間個人の自分らしく直感的に生きたいという純粋な少年的生命力と輝きは奪い取られ、その代わりに植え付けられたのは、大人しく上からの命令に従うようにひれ伏す精神と周囲に合わせて同じような部品にならなければ生きていけないというおそれだった。自分で考えることをしない聡明でない子供達はこの教育の津波に飲み込まれ、自分でも気づかないうちに集団の構成要員へと組み込まれていく。

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個人の幸福とは疑いようもなく、自分らしく直感的に人生を生き抜いていくという輝きであるのに、集団の幸福というものはその個人の幸福を強制的に握りつぶした後にこそ出現する、犠牲を必要とする企みであった。個人の幸福と集団の幸福は、このようにお互いにすれ違ったままでお互いを傷つけてゆく。

 

 

・ぼくたちの聖なる絶対的幸福は集団の中では得られない

個人の幸福が集団の幸福につながれば素晴らしいことなのに、集団の幸福によって個人に幸福がもたらされるのが理想的であるのに、人間集団の構成要員が増えれば増えるほどに、それは曖昧で困難なものになっていく。なんとか個人の幸福と集団の幸福は一致させられないものか、この水と油のように相入れないものたちを完全に併合するのは難しく、”折り合いをつける”という方式でお互いがある程度の幸福を享受するしかないのだろう。

もちろんこの世に生まれてきたからには完全で絶対的な幸福を望むという美しく純粋な魂も残されていることだろう。しかし考えれば考えるほどに明確になることは、ぼくたちの絶対的な幸福は、人間集団の中には決して生み出されはしないだろうという諦めである。愚かな相対的な幸福ならば、人間集団の中でも運がよければ一時的に手に入れることは可能だろう。しかし本当に求めているものが、宝石のように輝く絶対的幸福ならば、ぼくたちは心を集団から立ち去らせるべきである。

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