「わたし」と「あなた」の間には、分裂と争いが潜んでいる。
日本語で「あなた」と言ってもいいのは本当か? 〜言語学から見る人間の戦争を引き起こす本性〜
・旅先では専ら英語と中国語を多用している
・「あなた」に見る翻訳の限界
・日本語では相手のことを「あなた」と呼ばない
・「あなた」を「あなた」と呼ぶ言語を扱う意識に潜む戦争
・「あなた」は「あなた」ではなく森羅万象のうちの等しきひとつの生命
目次
・旅先では専ら英語と中国語を多用している
一人旅をしていると、圧倒的に日本語を使う機会が減る。そして英語を使う機会が格段に増える。
英語といえば、必ず主語をつけなければならないという日本人には馴染みにくい種類の言語だ。ぼくたちは普段日本語であまり主語を使わなくても会話が円滑に成り立つのに対し、英語では必ず主語を設置しなければならないという面倒臭さがある。もちろん自分が英語で会話するにおいて、最も使う主語はI(わたし)だろう。
普段あまり使わない「わたし」という言葉をかなり頻繁に使うことによって、英語をしゃべっている自分は実に自己主張の強い人物になったかのように感じられる。そして実際に、英語をしゃべっていると自分、自分と自己を主張し、自分の意見をはっきりと強調できているような気がする。これは日本語を使っているだけではわからない、新しい“自己主張の強い”自分の発見である。
今は中華人民共和国を旅行中なので中国語を多用しているが、中国語でも日本語以上に我(わたし)と主語を設置しなければならない場面が多く、英語を喋る際と同様に、自分の主張を強めに押し出している印象がある。
・「あなた」に見る翻訳の限界
「わたし」と対立する存在は「あなた」である。英語でも中国語でも「わたし」と同じくらいの頻度で「あなた」という言葉を用いる。英語ならyou,中国語なら你である。英語や中国語で「あなた」と言ってもなんの違和感もなく感じられるものだが、それでは日本語の場合はどうだろうか。
日本語の会話の中で「あなた」とか「君」とか「あんた」とか言っていると、かなり感じの悪い人ではないだろうか。もしも英語や中国語がネイティブな人が、youや你をそのまま日本語にあてはめて「あなた」などと語ってしまうと失礼な人になるのではないだろうか。これは翻訳の限界を感じさせる事象であり、なんでもかんでも言葉を当てはめて充てがい翻訳すればそのままニュアンスが伝わるというほど、言語というものは浅薄ではないことを物語っているようだ。
・日本語では相手のことを「あなた」と呼ばない
ぼくたち日本人は、英語や中国語のように相手のことを「あなた」などと呼んだりしないで、普通は名前で呼ぶのではないだろうか。友達を呼ぶ時も呼び捨てか、あだ名で呼びあし、決して友達のことを「あなた」などと呼ばないだろう。友達を「あなた」なんて呼ぶ日本人がいたら、結構変人扱いされるのではないだろうか。俺は「あなた」なんかじゃないちゃんと名前があるのだと怒り出す人もいるだろう。
同様に学校の人や会社の人、上司などを呼ぶ時にも「あなた」などと呼んでしまえば失礼極まりない常識のない人だと見なされることだろう。親しくなかったり距離がある人には、きちんと名前にさんでもつけて呼ぶのが日本語、日本社会としてふさわしい。
・「あなた」を「あなた」と呼ぶ言語を扱う意識に潜む戦争
しかし、日本語ではなぜこんなにも「あなた」と呼ばないのだろうか。「あなた」と呼ぶ文化と。きちんと名前で呼ぶ文化との違いはなんだろう。
はっきり言ってしまえば「あなた」と呼んでいい文化は非常に便利だ。それは、相手の名前を覚える必要がないからだし、旅先で覚えにくい外国人名で自己紹介されて光の速さでその人の名前を忘れ去ったときでも、とりあえず「あなた」と呼べばすべては許されるし何の支障もありはしない。「あなた」と呼んでいい文化は記憶力の悪い人に都合がよさそうだ。
一方で「あなた」と呼ぶ言語にこの心を浸し切って思うことは、非常に自分という存在を意識せざるを得なくなっていることだ。「あなた」と対照的な存在といえば「わたし」である。「あなた」という存在を意識するからこそ、「わたし」という意識がありありと立ち現れてくるのだ。男がいるからこそ、女という存在が出現するように、死があるからこそ、生きている自分を噛み締められるように、「あなた」がいるからこそ「わたし」という存在が濃厚に浮かび上がる。
「あなた」という存在を認めてはじめて「あなたではない誰か」という存在に気づくことができ、ぼくたちはそれを「わたし」だと判断する。「わたし」というこの存在は「あなた」という存在を認めた時に出現する副産物だ。そして「あなた」ではないからこそ存在できる「わたし」は、常に「あなた」への否定を土台として成り立っている。「あなた」ではないからこそ「わたし」なのだ。
そのように「あなた」と「わたし」を2つに分け隔て、「祖国」と「異国」を2つに分け隔て、「男」と「女」を2つに分け隔て、「死」と「生」を分け隔てることによって成立する人間の意識において、そのような否定にまみれた世界において、どうして恨みや憎しみや戦争が起こらないということができるだろう。恨むことや憎むことや争い合い傷つけあうことは、人間のnature(本性)なのかもしれない。
「あなた」と「わたし」をふたつに濃厚に分け隔てる言語は、境界線と否定の感触にまみれている。「あなた」はもっと強く「あなた」となり、「わたし」はもっと濃厚に「わたし」となり、それは互いの否定によって成り立ち、潜在的な争いは止むことなく立ち起こり、自己主張なみるみるうちに強くなっていく。わたしはこう思うのだ、ぼくはこうなのだと、常に摩擦熱は生じ、生きていく上で互いの存在をすり抜けることが難しくなる。
・「あなた」は「あなた」ではなく森羅万象のうちの等しきひとつの生命
日本語のように「あなた」ではなく名前でその人を呼ぶ文化は、境界線や対立の意識が薄いという点において“平和”な言語なのかもしれない。
ぼくたちは相手のことを名前で呼ぶ。林檎をリンゴと呼ぶように、水をミズだと呼ぶように、鶺鴒をセキレイと呼ぶように、まさに世界中にあふれた物質や生き物と同じような感覚で、相手のことを名前で呼ぶ。
相手の存在は「わたし」という一人称に対立する「あなた」という二人称だとは、言語中に決して認めない。「あなた」は「わたし」の敵ではない。「あなた」は「わたし」の否定ではない。「あなた」にはちゃんとした名前があり、「あなた」を「あなた」ではなく名前で呼ぶことによって、「わたし」と対立する存在ではなく、林檎や、水や、鶺鴒と同じように、この世界中にあふれている森羅万象と平等で等しい存在として、語りかけるための肯定的な友として、相手のことを見なしているのかもしれない。
それにより、自分の意見を強く主張し議論したり、対立し争い合うことは苦手となるだろうが、だからこそこの国では“平和”に似た状態が続き、世界最古の国家になったのかもしれない。