この世は過多な言葉であふれている。
多くの言葉を語れば心が通じるというのは本当か? 〜意味深い一の言葉を解き放て〜
・言葉の氾濫している時代
・言葉には力がある〜言霊信仰〜
・言葉の主になりたければ深めるべきは自分自身
・意味深いひとつの言葉を解き放て
・言葉の氾濫している時代
ぼくたちは現代の社会の中を、多量の言葉に飲み込まれながら生きている。インターネットが身近になってからというもの、言葉はぼくたちに向かってまるで海のように押し寄せ、ぼくたちは時々押し流されそうになる。ネットニュースの言葉、SNSの言葉、ブログの言葉、情報サイトの言葉、掲示板の言葉、インターネット空間は言葉であふれ返っている。
インターネット上では1秒後に別の世界が展開されているかもしれず、1秒ごとにその姿形を変える様子にぼくたちはそれに見入ってしまう。ぼくたちは本能的にじっと静止して変わらない退屈な景色たちより、点滅し激しく移り変わる急激な変化に注目してしまう傾向がある。大して変わり映えののしない現実の世界を退屈に感じては、瞬間瞬間で変わりゆく刺激的なインターネット空間を覗いて夢中になってしまう。
しかし瞬時瞬時に移り変わるその情報の中に、自分にとって本当に大切な情報はどれくらい含まれているのだろうか。ぼくたちは全く必要のない情報や言葉の氾濫に飲み込まれ、怒りや悲しみや興奮に心惑わされ、息ができなくなっていないだろうか。ぼくたちはとめどなくあふれ来る言葉を受け止める能力ではなく、逆に制御するための能力が必要なのではないだろうか。本当に自分の奥底と響き合う、尊い言葉と出会えているだろうか。
・言葉には力がある〜言霊信仰〜
多くの言葉を語れば語るほどに、相手にたくさん伝わるような気がしてしまう。たくさん言葉を発すればより多くの情報が伝わる気になるし、社交的に見えるし、心が通じ合うような気がしてしまう。多くの難しい言葉を覚え、多くの調べた物事を記憶して、流暢に会話をこなせば、なんだか自分が言葉の支配者のように感じてしまう。うまく言葉を使うことができる、言葉の主人のように思い込んでしまう。言葉の量が多いほうがいいのではないかと信じてしまう。
しかし矛盾するように、多量の言葉をたやすく口から放出する者たちの言葉には、心の熱が内包されていないように感じられるのはどういうことだろう。多くの言葉を湯水のように使えば使うほど、そのひとつひとつの言葉が密度を失い、意味合いを喪失してしまうように思えるのはなぜだろう。
言葉には力がある。言葉は”言霊”という不思議な力で、言葉にすればそれが本当になると古来の日本から信じられてきた。それゆえに、言葉を口から出すときには慎重に、言霊やその尊さを意識しなければならなかった。今の時代のように言葉が氾濫することに慣れ果ててしまう前には、人々の間でも、おそらく言葉を浅はかに多用することなく、そこに心の熱を乗せられないような偽物の言葉を口から出さないようにと戒められてきたのではないだろうか。
・言葉の主になりたければ深めるべきは自分自身
大切なことは、言葉の中にある熱量をどうにかして相手に届けたいという強い思いだ。その思いなしに、どんなに難しく巧みな言葉を多用しても、どんなに豊富な語彙力や知識を用意しても、人の心と自分の心を言葉という霊力で交わらせ、通じ合わせることはできないだろう。本当に重要なことは言葉そのものではなく、そのはるか向こう側に存在している、人の思いの熱量やその周囲に浮かんでいる言霊の気配である。
人々と言葉によって深く交わりあい、わかり合いたいと願うなら、言葉そのものを磨くのではなく、磨くべきは自分自身の内側である。自分自身の内面に言霊を響かせる深い情緒が潜んでいること、ほんの少しの言葉でもそこに言霊を乗せ操り得る思いの熱量を育てることが重要だ。そしてその方法は、決して他人から教わることなく、幾度となく孤独に打ちひしがれ傷つけられる人生という旅路の中で、自ら発見しなければならない。
・意味深いひとつの言葉を解き放て
愚かしく千の言葉を言い放つ者になってはならない。
浅はかな千の言葉も、意味深いひとつの言葉には決して敵うまい。
愚かしく千の言葉を言い放つ者になってはならない。
意味深い一の言葉をこの世に解き放て。