パワフル パワフル パワフル 全開 なぁみさえ♪
アニメ主題歌が商業的音楽に飲み込まれもいいというのは本当か? 〜オラはにんきものの尊さ〜
・クレヨンしんちゃん「オラはにんきもの」
・「ドラえもんのうた」
・純粋なアニメ主題歌は宣伝と洗脳へと姿を変えた
・子供達の世界へ開く受容体
・クレヨンしんちゃん「オラはにんきもの」
ぼくはクレヨンしんちゃんの昔の主題歌が大好きだ。今になって聞いてもこれから楽しいクレヨンしんちゃんが始まるのだと思って心がワクワクしてしまう。「オラはにんきもの」という題名だったと思う。歌はしんのすけが歌っており、たまにみさえの声が入っている。
“パワフル パワフル パワフル 全開 なぁみさえ
おバカな1日元気だぞ〜〜〜”
としんちゃんが歌うと、みさえがしんちゃんに呼びかけるように
“しんのすけ〜〜〜!”
と明るく呼びかける楽しさがなんとも楽しい感じがして大好きだ。さらには
”ナンパをするなら 任せておくれよ
3にも4にも 押しが肝心”
とナンパのコツまで教えてくれるという優れものの歌だ。
ぼくがこの曲を大好きなのは、何の邪念も入っていないからに他ならない。本当にクレヨンしんちゃんのために曲を作ってあげよう、クレヨンしんちゃんのために歌おうという気持ちがこもっており、この曲を流行らせてやろうとか、売らせようとか、それで金を稼いでやろうとかいう邪悪な思惑が全く感じられない。ただ純粋にアニメのため、クレヨンしんちゃんため、そしてそれを見ている子供達を楽しませてあげようという、純朴で美しい気持ちに満ちている。
・「ドラえもんのうた」
同様にぼくはドラえもんの昔の主題歌も大好きだ。
“アン アン アン
とってもだいすき ドラえもん〜”
という、まさにドラえもんの、ドラえもんによる、ドラえもんのための主題歌という意味合い以上のものが感じられないところが素晴らしい。なんの欲望もなく、なんの権力もなく、なんの癒着も感じられない清らかな「アニメ主題歌」という雰囲気がきわめて尊い。またドラえもんの映画は、武田鉄矢さんによるドラえもん映画のための主題歌が、売れはしなかったものの質は高くかなりの名曲揃いで聞き応えがあった。
しかしこのようなアニメ主題歌はこの時代珍しいものではなく、クレヨンしんちゃんやドラえもん以外でも、昔はこのようなただアニメのため、子供達のための純粋な主題歌であふれていた。
・純粋なアニメ主題歌は宣伝と洗脳へと姿を変えた
このような清らかで純粋な雰囲気が暗く濁り始めたのは、だいたい西暦2000年くらいだったと記憶している。だんだんとアニメの歌というものが、商業音楽との癒着を感じさせ薄汚れていった。子供のぼくがそのような雰囲気に気づきだしたのは犬夜叉に浜崎あゆみの「Dearest」が流れていたのを見たときだろうか。こんなの明らかに犬夜叉のための作られた楽曲ではなく、ただの浜崎あゆみのまさに“宣伝”だった。
ドラえもんの映画主題歌も武田鉄矢が終了し、徐々にSPEEDになったり島谷ひとみになったり、ドラえもんとは全く関係のない権力者の商業的宣伝に変わっていった。今となっては星野源が主題歌を歌い、今度の映画の主題歌はミスチルだというから心が虚しくなる。クレヨンしんちゃんも同様に商業的音楽によって染められ、倖田來未とか関ジャニとかきゃりーぱみゅぱみゅとかゆずとかあいみょんとか、クレヨンしんちゃんのため、子供達のために歌を流すという時間は終わり、自己顕示欲の強い商業的アーティストの宣伝、子供達への流行の洗脳へと姿を変えた。
アニメ主題歌はアニメのため、子供達が楽しむためのものという次元を完全に終了し、金をたくさん儲けたい芸能事務所と癒着し、アニメのために心をこめて作られた作品ではなく、ただの既成楽曲や自己顕示欲の強いアーティストの“宣伝”や“洗脳”として、権力者に利用されるだけの物悲しい時間帯となっていった。昔のアニメ主題歌という豊かで楽しかった純粋な子供達のための時間は、もはや幻となってしまったのだろうか。
・子供達の世界へ開く受容体
子供達にとって、純粋な心で作られた美しい創造物に触れるという機会は、多ければ多いほど豊かな精神を育むために重要だろう。しかしそのような機会を、今の時代では欲望や権力が根こそぎ奪い去っているような気がするのはぼくだけだろうか。子供達はその純粋で清らかな受容体で、世界のすべてを受け入れようとする時期がある。そのような時期に、周囲の世界に何があふれ何を自然と享受するかによって、その子供達の人生の質も大きく変わってくることだろう。
「奪いたい」「金儲けしたい」「洗脳したい」という気持ちにまみれている創造物よりも、「与えたい」「楽しませたい」「美しく創り出したい」という純粋な創造の心を伴っているものたちを、ぼくならば子供時代に大いに注ぎ込まれたい。