自分が悪いのだと罪悪感に苛まれながら生きるべきだというのは本当か? 〜責任感の強い者たちへ〜

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人間はとかく、たったひとつの原因をさがしたがる。

自分が悪いのだと罪悪感に苛まれながら生きるべきだというのは本当か? 〜責任感の強い者たちへ〜

・人はとかくたったひとつの原因をさがしたがる
・たったひとつに罪を押し付けたがる人間社会
・責任感とは何か
・自分が悪いのだと罪悪感に苛まれながら生きるべきだというのは本当か?

・人はとかくたったひとつの原因をさがしたがる

何かよくない出来事が起こったとき、人はとかくたったひとつの原因をさがしたがる。誰が悪かったのだ、何が悪かったのだとたったひとつを言い当てて、そのたったひとつに全ての責任を押し付けては、そのたったひとつを訂正したり反省させることで全ては解決し、満足したような顔をする。しかしこの世にこれほどの愚行があるだろうか。

悪い出来事の原因がたったひとつの人や事象に収束するなんて、冷静に考えればすごくおかしい。人間というものはお互いに深く関わり合いつながり合っている世界の万物に無理矢理に無数の境界線を敷き詰め、これは林檎だ、これは人間だ、これは旅だ、これはわたしだなどと言っては世界を分裂させていく。世界を分け隔てて考えることによって人間は合理的に物事を認識し、その結果として他の生物には見られない独自の文明や科学を発達させて来たのだろう。それゆえにぼくたちは分け隔てることを正義だと思い込み、独立したひとつひとつに意味があり、理由があり、存在の責任があるのだと考えやすい。

しかし真実は、独立したひとつひとつなんてどこにもありはせず、独立しているように見えているひとつひとつであっても、全ては密接に関わり合い、繋がり合い、影響し合い、自分だけ他の世界と無関係に孤立し独立している存在なんてこの世のどこにもありはしない。

 

 

・たったひとつに罪を押し付けたがる人間社会

あるひとつの悪い出来事が全てAさんだけのせいであるというのなら、Aさんと関わり合い繋がり合い影響を及ぼしたその全てさえ悪いと言っても過言ではないはずだ。Aさんを育てた家族や家庭環境、隣近所の関係性、Aさんのペット、Aさんが育って来た自然環境、Aさんが訪れた川や海や森、Aさんの好きだったアーティスト、Aさんを指導して来た先生や上司、Aさんに関わってきた全ての人や全ての物質と環境、すなわちこの世の森羅万象が悪いということになるのだ。

今上空にふと吹いた風だって、今川にポチャンと落ちた石ころだって、世界を巡り巡ってAさんに少しばかりの影響を与えているに違いない。世界の全てがAさんと濃厚に関わっており、Aさんは悪い出来事の責任を全て押し付けられるべき世界から切り離された独立した存在では決してないのだ。

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しかし実際には”世界の全て”を罰することはできない。人間社会は悪い出来事がひとつ起こったのだから、誰かひとりのせいにして、何かひとつのせいにして、そいつに処罰を与えることによって悪い出来事を解決させた気分に浸りたい。だからたったひとりの悪者をさがす。たったひとりの責任を押し付けたい人物を指名する。たくさんの理由を浴びせかけ、たくさんの因縁を注ぎ込み、たったひとりがいかに悪者だったのかを追及する。責任を取るべきだと人々の悪意の的にさせる。

人間社会が真理を見抜かないばかりに、繋がりあった世界を見透かす力を持たないばかりに、たったひとりは全ての罪を背負った悪者になり、罪悪感に苛まれ、全責任を押し付けられる。そうすれば問題は解決したのだと人間社会はひどく満足するのだ。しかしそれは偽物の解決に他ならない。悪い出来事が引き起こされたというのなら真実の悪者は全世界であり、全ての人間、全ての物事、森羅万象である。テレビ画面を見ながら自分は無関係だと開き直ることはできない。人間社会は無力だから全世界を罰することや修正することができずに、たったひとりの人間に暗黒の罪をなすりつけるが、ぼくたちが責めるべきは全てが関わり合っているあらゆる世界の現象である。

 

 

・責任感とは何か

人間社会に出るとやたらと責任感というものが強調される。社会人として全ての行動に責任を持ち、何か過ちが起これば自分でその責任を負うべきだと要求される。しかし責任感とは何だろうか。それは、本当は自分に関わり合っている全てが原因であるのに、社会の他の部分に汚名を着せたくないがために自分という存在に全ての罪を収束させろという、人間社会の勝手な居直りではないだろうか。

 

 

・自分が悪いのだと罪悪感に苛まれながら生きるべきだというのは本当か?

世の中には何か悪い出来事が起こった時に、自分が悪かったのだとひどく責任感を感じ落ち込むような人が散見されるが、全ての世界が関わり合い繋がっている以上、自分だけが悪いのだというなんてことはあり得ず、そのように落ち込む時間は実は人生における無駄ではないだろうか。もちろんその落ち込みによってその悪い出来事の改善策が見出され、今後の役に立つというのならば多少落ち込むのも悪くないが、その改善策が見出されたのならば即刻自分が悪かったなどと思い込むことはやめるべきである。

自分が悪いなどと思い込んで自分の心を傷つけることほど、非効率的な時間があるだろうか。何か悪い出来事が起こったときに、たったひとりの人間やたったひとつの現象が悪かったなどということはあり得ない。あらゆる世界は繋がり、すべての森羅万象は関わり合っているのだから、たとえ悪い出来事が起こっても、悪いのはあなただけではなく、あなたと関わっている世界全部だ。人間たちは愚かしく誰かひとりのせいにしたがる性質を持っているから、もしかしたら上司や人間集団はあなたのせいだと指をさしてあなたを責めるかもしれない。しかし心の中ではそんなもの無視して構わないだろう。真理を見透かさぬ意見に構ってられるほど、人生は暇ではないからだ。

たいてい何か悪い出来事が起こった際には、責任をどうとでも取られるのが常である。そんなもの理屈次第というか、考え方次第なのだ。理屈次第ではBさんが悪いということにもなるし、こう考えればCさんが悪いということにもなるし、別の側面から考えれみればDさんでさえ悪者に仕立てあげることができる。どうとでも理屈を組み立てられるこの世の中においてあなたが悪いのだと指をさされたということは、あなたが本当に悪いということを意味するのではなく、そう言ってくる人間集団があなたを悪者に仕立て上げれば最も都合がいいし便利だからそのように小賢しく企てただけの話であって、真理を含む要素など何ひとつない取るに足らない意見である。

自分が悪いと罪悪感に苛まれて下を向きながらでも、自分は悪くないと開き直って朗らかな気分の中でも、人生の時間は平等に過ぎ去っていくのだ。どうせ生きていかなければならないのだから楽しい気分で生きた方が、人生得ではないだろうか。そして自分が悪いのだと罪悪感に苛まれながら生きていく時間は、はっきり言って人生の無駄ではないだろうか。罪の所在などどうとでも取れるこの浮世の中で、敢えて自分を苦しめる考えに耳を傾けて自分を傷つける余裕があるほど人生は長くはない。関わりあうこの世界の真理を見抜き、愚かしい人間集団からの植え付けを軽々と無視して、聡明にたかが浮世を渡っていくべきである。

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