人間はいつも他人を裁きたがる。
他人の評価を気にするべきだというのは本当か?
・人間はいつも他人を評価し裁いている
・間違いだらけの人間という存在
・他人の目という呪縛からの解放
・人間はいつも他人を評価し裁いている
ぼくたちは世の中を生きていると、常に他人によって裁かれている。学校では成績という数字によって裁かれ、面接では人間性や従順性を裁かれ、労働では生産性や部品としてきちんと機能するかどうかを常に見極められている。まるでいつも裁判にかけられているような人生だが、しかもそれが法律によるものではなく、人間たちの主観によるものだから甚だ危うい裁判である。
ぼくたちは人々によって裁かれ、ここがいいと賞賛されることもあれば、これがダメだと罵られ修正を強制されることもある。人間たちは自分が他人を裁くに値する価値の高い人間だと思っており、またその評価を臆することなく披露しては、その裁きを尊重し重く受け止めるべきだという顔をする。
それゆえに人々は他人の目を気にしながら生きるようになる。こうやって生きたらどのように見なされるだろう、自分がこれを選択したらどのように裁かれ評価されるのだろう。そんな風に怯えて、本当に自分が心から望む生き方から外れてしまっているということが多々ある。しかしこれは人間としてふさわしい生き方なのだろうか。本当に他人の評価というものは、尊重するに値する代物なのだろうか。
・間違いだらけの人間という存在
その裁きや評価が神様からのものならば、尊重したい気持ちもわかる。全知全能の神が言うことならばその評価は絶対に正しいだろうと判断できるので、おとなしくそれを受け入れて気にしながら人生を歩むことも悪くない。しかしぼくたちが気にするべきだとされているのはたかが人間の評価だ。人間の裁きというものを、果たしてどれほど重要視することができるだろう。
自分というものを顧みれば簡単にわかることだが、人間というものはよく間違う生き物だ。頑張って正しい人ですよという顔をしながら人間世界の中を歩いているつもりでも、色々と間違いを犯したりミスをするということは多々ある。間違わない人など、この世にいないだろう。いや、むしろ人間というのは間違いだらけの歩みの中で生きているという方が適切かもしれない。自分は間違いなど決して犯さずに生きて来られましたと胸を張って言えるような人間が、一体どれほどいることだろうか。そして自分は何も間違わずに生きて来られたという人間に限って、それ自体がものすごい勘違いである可能性が高い。
・他人の目という呪縛からの解放
全知全能の神の裁きならいざしれず、間違いだらけの人間という生き物の評価をそれほど重要視するべきだろうか。そして果たしてそれほどまでの価値があるのだろうか。答えは誰の目から見ても明らかであるに違いない。
そしてそのような間違いだらけの人間という生き物の目を気にして、自分の思い通りの道を歩いたり、自分の好きな服を着たり、自分の考えを主張したりできないなんて、なんともバカバカしいことではないだろうか。どうして間違いだらけの人間というものの視線によって、健やかにのびのびと生きるために生まれてきた人間の精神がひどく抑圧されなければならないのだろう。そのような呪縛から逃れ、自分自身を解放してやることこそが、よりよい人生への近道ではないだろうか。
世の中では「そんな風にしたら人からこんな風に思われるよ、だからやめておいた方がいいよ」という他人の目を気にする論調を度々耳にするが、間違いだらけの人間という生物にどのように思われるかを考えるよりも、自分自身がどのように生きるべきかを能動的に深く考える必要があるのではないだろうか。たとえどのように思われ見なされようとも、それが正しいという保証はどこにもないのだ。そんなあやふやで曖昧な価値観で自分を縛り付けるくらいなら、思い切って呪縛から解き放たれた方が潔い粋な生き方である。
そもそも「そんな風にしたらこんな風に思われるよ」というアドバイスも、そんな風にする人が悪いような言い方をされているが、それも本当かどうかわからない。そんな風にした自分が悪いのか、こんな風に思う他人が悪いのか、その答えは闇の中である。大抵日本民族というものはこういう場合儒教の観念を適応させ、目上の方に人間たちが媚びへつらうような場面が多いのだが、それは真実からはるか遠い風景である。愚かな浮世に惑わされることなく、この世での修行を完成させなければならない。真理の光をかざさなければならない。