罪というものは罪人だけのものだろうか?
罪の所存は罪人にだけあるというのは本当か?
・罪の所存
・罪の曼荼羅
・自分の裁判
・自作詩「人間の裁判」
・罪の所存
この世にはたくさんの罪がある。盗むこと、騙すこと、傷つけること、殺すこと。いずれもゆるされるべきではないとされ、その罪を犯したものはとらえられ罰せられる。何か犯罪が起こったならば「誰か」ひとりの責められる人間が必要なのだ。これは罪に限らず、通常の人間社会でもよくある。
みんな何か少しおかしな出来事が起こった時には、誰かのせいにせずにはいられないのだ。逆に言えば誰かのせいにしてその原因のすべてをその人になすりつけさえすれば、他の人は責任から逃れることができる。誰に責任があるのか、誰もが押し付け合い逃れ合い、押し付けられたものだけが罰せられる定めだ。しかしこの世に、誰かひとりだけのせいである罪など存在するのだろうか。
浮世ではまるでそれが当たり前のようにまかり通っている。誰もそれを疑いもしない。AさんがBさんを殺したならばAさんをつかまえて罰すればそれで終わり、Cさんが万引きしたならばCさんをとらえて懲らしめればそれで終わり、Dさんが嘘をついたならばDさんを責め立てて虐げて世の中は満足して終了する。しかし、罪の次元とはそれほどまでに浅はかで単純なものだろうか。誰もこれを疑わないものだろうか。
・罪の曼荼羅
AさんにBさんを殺させたものはなんだろう。Cさんに盗みを働かせたものはなんだろう。Dさんを嘘つきの性格にしたものはなんだろう。そのように考えればあらゆる罪は森羅万象とつながってゆく。
先日も書いたが、その人の性格がその人のせいであるということはありえない。性格は生まれる前から決まっていたのか、生まれたあとの家庭環境などの外的要因によるものか、またはその両方かは完全には定かではないが、いずれも自分ではどうしようもない選択しようもない幼少期の運命の受容が成し遂げた結果であり、自分の性格を自分自身で決めることなど誰もできない。前生からの因縁か、生まれてからの周囲の環境か、もしくはその両方が複雑に絡まり合い織り成し合い、人間性は構成される。
この世の万物、森羅万象はつながりあい、互いに影響し合い、関わりのないものなどひとつとしてありはしない。すべてのものがつながりあい、関わりあい、なにもかもが発生している。殺すというAさんの人間性も、盗むというCさんの罪も、虚言を言い放つDさんの性格も、すべてはその人自身のせいではなく、自分ではどうしようもない逃れ難い運命の結果として、あらゆるものが複雑に絡まりあった結果として生じたものならば、どうして彼らだけがこの世で責め立てることができるのだろう。
人間というのはひとりきりで生きている者はない。必ず他の命とつながりあい影響し合いながら生活を営んでいる。それならば罪を発生させたものの家庭や、友人や、学校や、職場の人々ははその罪に無関係だろうか。すべては関わり合っているのだから、無関係な人などあるまい。それでも自分は無関係だという顔をしてこの世では生きていくことができる。罪を犯した人間だけが罰せられればいいのだという顔をして生きることができる。しかしこれは真実の道なのだろうか。
もしかしたら今ささやかな風の吹いたことが、つながりにつながって結果的にBさんを殺すように仕向けたかもしれないし、今海に生じた小さな波が、関わりに関わり合ってCさんに盗みを働かせたのかもしれない、今爽やかに鳥の鳴いたことが、巡り巡ってDさんに嘘をつかせたのかもしれない。森羅万象はつながり合っており、すべてのものはすべてが原因であるゆえ、それは真実のひとつと言えるだろう。AさんがBさんを殺したことは、決してぼくたちと無関係ではないのだ。それなのにAさんを罪人扱いすればそれで終わり、自分にはなんの関係もありませんよと開き直れる世の中なのだから気楽なものである。
・自分の裁判
それでもAさんの罪の原因を風に求めて、風を罰したって仕方がない。Bさんの罪のもとをたどって海の波をとらえることはできない。Cさんの罪をたどって鳥をこらしめてもなんだか虚しい。結局真実なんてどうでもよく、誰か見せしめに責任を押し付け、罪を償わせ、無為に満足しているのが浮世の業なのだ。しかしそれはひとつとして真実を投影してはいない。
すべてはつながりあっているのだから、ほんとうはすべてを罰しなければならないのに、あらゆるものは関わり合っているのだから、あらゆるものを責め立てなければならないのに、それではあまりに複雑だからと、誰かのせいにしなければ面白くないと、自分は関係ないという顔をしながら、誰かひとりに罰を与えて喜んでいる世の中は人間の性質を表しているようでとても興味深い。
そして果たして人間が人間を裁けるのだろうか。誰もが間違いだらけで生きているのに、誰もが完全に正しい人なんていないのに、間違いに間違いを重ねる人々で集まって、果たして正常な裁きなど下せるのだろうか。人間の裁きなど、実は取るに足らない遊びではあるまいか。本当の真実の裁きは、自分自身の中にしかないのではないだろうか。自分を裁けるのは自分自身だけではないだろうか。
他人はいつも誰かを裁いている。他人の裁きに怯えて自分自身を生きられない人々。けれど間違いだらけの人間の裁きに価値があるのだろうか。気にするほどの意味があるのだろうか。自分自身のことは自分で裁けばいいのではないか。自分だって間違いだらけだが、他人だって間違いだらけなのだから同じことだ。それならないっそ自分の裁判官は自分だけに設定し、この世を生き抜くことの方が真実に近づけるのではないか。間違いだからのものたちをいつまでも気にして動けないなんて、虚しいことではあるまいか。
・自作詩「人間の裁判」
あなたがこの世で人間に
どのようにひどく裁かれようとも
案ずることはない
大いに間違う人間が
大いに間違う人間を
正しく裁けるはずがない
当たり前のように毎日は
裁きにあふれているけれど
そんなものに価値なんてない
取るに足らないことだよ
たかが人間の言葉たちに
うなだれたり喜んだりするぼくら
どうでもいいことだよ
間違いだらけの人間たちが
天の言葉を話すはずがない
この世に心の根を下ろさずに
まっすぐに生きよう
迷わずに
あの世を拠り所とせずに
真実に生きよう
限りなく
大きな力に惑わされて
すぐにさ迷う人々をすり抜けて
安らかに生きよう