不老不死のクラゲがいるなんて!!!!!
いらない人間なんていないというのは本当か?その2 〜人間は本能的に平等を選び取らない〜
・不老不死の海の生物、ベニクラゲ
・海の生物には卵や赤ちゃんがいっぱい!
・遺伝子を確実に未来へ残すために、犠牲となる命を増やそう
・個体が不幸を被ろうとも最後に集団が幸福をまとえばよろしい
・いらない人間なんていないというのは本当か?
・人間は本能的に”平等”を選び取らない
・中島みゆきは名曲「誕生」でいらない子なんていないことを言いたかった
・自我を発生させてしまった人間の幸福の在処
目次
・不老不死の海の生物、ベニクラゲ
先日テレビでNHKを見ていると、クラゲの特集がやっていた。その中で、なんと不老不死のクラゲがいるというシーンがあった。不老不死のクラゲの名前は、ベニクラゲ。普通生物というものは、生殖して子孫を残したら老いてそのまま死んでしまうが、このベニクラゲというものは、そのまま昔の姿に退行できる習性を持っているらしい。
クラゲには幼い頃に”ポリプ”と呼ばれる木の枝のような状態でサンゴなどに張り付いている時期があり、ベニクラゲは大人になってからもそのポリプの状態に戻る能力を持っているようだ。大人のベニクラゲはポリプへと若返り、そのポリプは茎を立て、花を咲かし、その先端でまた新たな幼クラゲがいくつも誕生して、海中に放たれている様子が映し出されていた。
このたくさんの幼クラゲは有性生殖を行ってできたものではないので、当然大人のベニクラゲと全く同じ遺伝子を持って海中を漂い続ける。まさにベニクラゲが若返ったというわけだ。
・海の生物には卵や赤ちゃんがいっぱい!
このベニクラゲの特集を見て思ったが、海の生物の赤ちゃんというのは数が多いものがやたらと多い。このベニクラゲもそうだったが、例えば魚とか、エビとか、イカとか、ウミガメとか、そういう海の生物ってやたらとたくさんの数の卵を生むというイメージがある。しかしその理由はなんとなくぼくにもわかっていたつもりだ。
海の生物の赤ちゃんというのは外敵が多くすぐに食べられてしまうので、どんなにたくさん赤ちゃんを作っても、その中で大人になるまで育つのはごくわずかである。小さくて弱くてたくさん食べられてしまうのだから、大人になるまで育つ個体の数をなるべく増やし遺伝子を次世代へ引き継ぐためには、たくさんの卵を産みできるだけたくさんの赤ちゃんを作った方が安心だし理にかなっている。
教科書でも生物の授業でもそのように教わってきたので、なんの違和感もなくそうかそうかと聞き流していたが、よく考えてみればこれって結構ひどい話ではないだろうか。
・遺伝子を確実に未来へ残すために、犠牲となる命を増やそう
これはつまり要らない命、不要な命がこの世界には存在するということを意味しているのではないだろうか。
クラゲの赤ちゃんも、エビの赤ちゃんも、小さく弱々しく他の生物に食べられやすく、大人になれる確率が極めて低い。大人になれないとなれば遺伝子を残せない。クラゲやエビが知恵を絞り、どうすれば確実に未来に遺伝子を残せるだろうと考え抜いた先の結論が、たくさんの卵を産もうということだった。たくさんの卵を産み、たくさんの赤ちゃんを作り、たとえその赤ちゃんが小さく弱く海中で他の生物にすぐに食べられてしまうものだとしても、その赤ちゃんがたくさんいさえすれば、運のよい者は少しは生き延びてくれるだろう、運動能力のあるものがかろうじて大人になってくれるだろう、そしてわずかな者が成熟して子孫を残してくれるだろと考えた。
確実にこの世界に子孫を残すために、彼らは誰か他の者が幸福な大人になるための犠牲となる命を無数にこしらえたのだった。運の悪い者が食べられているうちに、のろまな者が殺されているうちに、彼らを犠牲にしてすり抜けて幸せな大人になるというわずかな個体のために、たくさんの命が量産されたのだった。それは食べられるための命であり、犠牲になるための命であり、決して大人になり生殖し幸福になるための命ではなかったのだ。
・個体が不幸を被ろうとも最後に集団が幸福をまとえばよろしい
生物というものは、えてしてこのように作られているものらしい。すなわちそれぞれの個体の幸福を願って作られているわけではなく、集団の幸福、種族の幸福、多少の個体を犠牲にしてでも遺伝子が未来へと引き継がれるという幸福が生物の前提になっているのだ。のろまな者は噛み砕かれて死んでもいい、運の悪い者は残酷に八つ裂きにされてもいい、その先に集団としての幸福があるのならば、多少の個体の不幸などふり向く価値もなければ、彼らの生命を尊重し思いやってやる必要もない…海の生物のシステムからそんな生命の摂理が聞こえてきそうだ。もちろん海の生物だけではなく全ての大人になることの難しい種類の生物が、このシステムを導入していることだろう。
・いらない人間なんていないというのは本当か?
それではぼくたち人間界ではどうだろうか。ぼくたち人間界では、もちろん要らない人間なんていない、必要のない人間などいないのだと、そう願いたい。どんなに軟弱で他者から虐げられる人間でも、運が悪く何をやってもうまくいかない人間でも、社会不適合で集団に入り込めない孤独な人間でも、醜く幼稚で誰からも選ばれない人間でも、お前なんて要らないと世間から置き去りにされた人間でも、自分は生きている意味があるんだ、この生命には何かしらの価値があるんだ、あなたが生まれてきてくれて嬉しいと誰かが思っていてくれているんだと、そんな風に心の底から切実に祈っては止まない。
しかし実際に人間社会を見渡すと、そのような生命はいじめられ、罵られ、見捨てられ、排除されている。まるで海の生命が教えてくれているように、愚鈍で弱く運の悪い個体たちが、運がよく素早く賢い個体がより快適に幸福に生き延びるための犠牲になっているのだろうか。そして強き者たちが幸福に生殖し、遺伝子を残し、それがぼくたち”人間”という集団の幸福なのだから、すべての個体はそれで満足するべきだと生命の摂理は告げるのだろか。
もしもぼくたちがクラゲの赤ちゃんがやたらいっぱい生まれる理由を知って、そうかクラゲが遺伝子を残すためにはそれが合理的だ、できるだけたくさんの赤ちゃんを作って、多くの犠牲を払いつつもなるべく生き延びる個体を増やして遺伝子を未来へ引き継ごうというのならばそれも納得だと、違和感なく受け入れられるのならば、この人間世界で、人間全体が遺伝子を未来へ引き継ぐために、犠牲になり虐げられている人間個体が発生しても、それも合理的だと受け入れざるを得ないのだろうか。
運悪く食べられたクラゲは要らない命なんかじゃない!食べられたクラゲは犠牲になったことによりクラゲ界全体に貢献して遺伝子を残すために協力しているではないか!不要な命なんかじゃないじゃないか!とも感じられるがそれならばぼくたちは、自分が八つ裂きにされたり丸飲みにされたり殺されたりするのを、人間全体の幸福のためだからと納得できるのだろうか。
・人間は本能的に”平等”を選び取らない
ぼくが最近学んだことは、人間は本能で守ろうとする道徳があるということだ。
手当てか危害を加えることなら手当てを、公正と欺瞞なら公正を、忠誠と裏切りなら忠誠を、権威と下克上なら権威を、清潔と不潔なら清潔を、自由と押さえつけなら自由を、人間は”本能的に”選び取るようだ。しかしこの本能の道徳から外れたものがある。それは「平等と差別」だ。
平等か差別かと問われ、人間は本能で平等を選び取らないらしい。平等は本能に反していて、平等だとしっかりした集団が作れないというのだ。たしかにお猿さんの群れにもヒエラルキーがあるし決して平等ではない。東アジアに蔓延る儒教の目上目下の精神も、このような平等を選び取らない本能から起こっていのかもしれない。とすればなんと本能的で原始的な宗教思想だろうか。
・中島みゆきは名曲「誕生」でいらない子なんていないことを言いたかった
先日中島みゆきの隠れた名曲「誕生」に関する彼女のインタビューに基づいて、「いらない人間なんていないというのは本当か?」という記事を書いた。
中島みゆき ”英語圏では、赤ん坊を分娩室でとりあげた瞬間に「WELCOME」って声をかけるんだってね。どういう生まれだとか、能力があるとかに関係なく、どの子も「WELCOME」って言われるってことを思い出してほしかった。映画ではのっけから重く、自殺の話なんかが出てくるけれど、いらない子なんていないんだっていうことを言いたかった。”
この世に生まれた人々は誰もが最初に”WELCOME”と呼ばれて生まれてくる、いらない子なんていないと言いたかったという彼女の感動的な言葉に心を震わせたのも束の間、今度はNHKのクラゲの映像を見てぼくはまた考え込んでしまった。「いらない人間なんていない」という彼女の言葉は本当か?と。
中島みゆきの「誕生」がいくら名曲だからと言って、ぼくがいくら彼女の大きなファンだからと言って、彼女の全ての言葉を思考停止して鵜呑みにすることはできない。それでは愚かな盲目的な宗教の信者ではないか。ぼくたちは自ら考え抜き、思考して、彼女の作品と対峙しなければならない。それが本当のファンというものではないだろうか。今日もぼくは考えている。道徳的に考えればいかにも正しい、しかしクラゲと生命の摂理が問いかける逆説にも心を震わせる。
「いらない人間なんていないというのは本当か?」
・自我を発生させてしまった人間の幸福の在処
あらゆる生命が集団のために個体を犠牲にするシステムの上で成り立っているこの世界において、自我を発生させてしまった人間はなんて不幸なことだろう!自分が自分だと気付きさえしなければ苦しみも悲しみもなく、精一杯生命という軌道を燃えるように駆け抜けていくだけで潔く終われたというのに!自我というものが究極的に幸福になることなどあり得ず、結局は痛めつけられて集団の幸福へと巻き取られてしまう運命の中で、ぼくたちはどのように生き延びていくべきだろうか。
「孤独」こそが、自我を持ってしまったぼくたち人間の救いの鍵なのではないだろうか。人間たちは浮世において、孤独は退けるべきものだと噂し合う。決して孤独になんてなりたくないと心を惑わせて、心を失ったままで集団に無理やり巣を作ろうとする者もある。しかし永遠に個体を犠牲にすると思い知らされる集団の浮世で、どのようにして真理を見つけることができると言えよう。常識を脱ぎ捨てて、洗脳を脱ぎ捨てて、おそれを脱ぎ捨てて、ぼくたちにはたどり着くべき孤独の境地がある。
もしかしたら死に絶えるかもしれない、もしかしたら無様に散るかもしれない、それでも、おそれを超越したどり着く孤独の異国には、群れているだけでは知り得ない幸福の鍵が眠っている。あなたが最もおそれるものが、あなたが最も選び取りたいもの。旅立ちなさい、何も持たずに。裏切りなさい、あらゆる思い出を。絆も所有もふりほどきながら飛翔は与えられる。はるかなる神々の山脈を超えて。