協調性の長所と短所を徹底考察!協調性がないことが悪いことだというのは本当か?

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協調性の長所と短所を徹底考察!協調性がないことが悪いことだというのは本当か?

・協調性がないことが悪いことだというのは本当か?
・協調性のある人は利用しやすく、協調性のない人は使い物にならない
・協調性のある人が好かれるのは単に便利で都合がいいからであり、本当の愛を享受しない
・協調性のある人の相対的幸福と迷妄、協調性のない人の絶対的幸福と孤独
・真剣に生き抜く者は必ず「協調性のない人」になり、「協調性のある人」は単なる怠け者に過ぎない

・協調性がないことが悪いことだというのは本当か?

人間社会の中で生活を営んでいると、知らず知らずのうちに協調性が求められる。協調性とは自発的に協力的な行動や他人の役に立つような助け合いができ、集団の中で同じ目的に向かって歩んでいけるような素質を意味する。

そのような素質を持った人間は使い勝手がいいので、人間社会や人間集団の中では当然のように求められやすく、「協調性のあること」はまさに人間としてふさわしい優れた素質であり、「協調性のないこと」は人間としての欠落を意味しているかのような雰囲気が人の世に蔓延している。例えば就職活動で自分のよさをアピールする際にも、「協調性のあること」は代表的な長所として語られることが多い。逆に就職活動で「協調性のないこと」を自己アピールとして披露する就活生がいたらかなり変な人だと思われるだろう。

大まかに言ってしまえば、「協調性のあること」はいいことで、「協調性のないこと」は悪いことなのだと誰もが信じ込んでいるということだ。しかしこれは本当なのだろうか。「協調性のあること」はそんなにもいいことなのだろうか。

 

・協調性のある人は利用しやすく、協調性のない人は使い物にならない

いいか悪いかは置いといて、協調性のある人間が”便利な人間”であるということは間違いない。協調性があるということは、いちいち指図や命令やお願いをしなくても、自分から進んで他人の役に立つように協力できる人間性を意味するからだ。つまり人間社会や集団の中で、都合よく稼働してくれる便利な部品であり、人間社会や人間集団を支配する者にとっては扱いやすい望ましい存在なのだろう。この人がこれをしてほしそうな感じがするからこれをしてあげる、あの集団はあれが必要そうだからあれをもたらす、そのようにして協調性のある人々は、他人の気配や周囲の空気を読みながら、自分が役立つような人間になるように行動する努力を惜しまない。このような種類の人間が集団にいれば確かに嬉しいし、ありがたいし、支配者だけではなく周囲の人も助かるので、みんな協調性のある人を好ましく思うだろう。

逆にこれをしてほしそうな雰囲気が集団の中にあるのに全くそれを察しない、もしくは察しているのに他人の役に立つたいという思いが足らずに行動に移さないような協調性のない人間は、使い物にならないので人間社会では嫌われ者になるだろう。みんなが協力して同じ目的に向かって進んでいるときに、協調性のない人が興味なさそうに、自分のやりたいことややるべきことだけやっているのを見たときには誰もがイライラしてしまうに違いない。まさに協調性のある人間が社会で好かれ、協調性のない人間が社会で嫌われるのは、考えてみれば当然のことであるように思われる。人間社会の中でみんなから好かれ、安定した地位を築きながら安定した収入を得て、安定した生活を営み続けたいというのなら、協調性のある人間になるに越したことはないだろう。

 

・協調性のある人が好かれるのは単に便利で都合がいいからであり、本当の愛を享受しない

しかしここで重要なことは、協調性のある人が社会において好かれるのは、ただその人が便利で都合かいいからという理由に過ぎない。それ以上でもそれ以下でもあるはずがない。誰だって共同生活を営む中では、集団に協力しない役立たずよりも、いつだって集団行動に協力する便利な部品の方が好まれるに決まっている。しかしそれは都合のいい道具として稼働しているか褒められているだけのことであり、決して本当に好かれていたり、愛されている訳ではない。

便利なのだから好かれて当然なのだ。しかしぼくは心から疑問に思うのだが、便利だから好かれて果たして嬉しいだろうか。都合がいいから愛されて幸せだろうか。空気を読める部品として従順に同調圧力に従うから賞賛されて、本当に人間としての価値が高まるのだろうか。それは奴隷が奴隷としての役割をきちんと全うしているから、これからも従順な奴隷でい続けるように心を縛り付けていることと何が違うのだろうか。ぼくたちの人生は、都合のいい部品として賞賛んされて消耗させられ、それだけで満足だろうか。ぼくたちの生命は「部品」ではなく、本来は「全体」ではなかっただろうか。

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協調性があるということは、常に他人の行動を観察したり、他人の思いや心情を気にしたり、集団の中に漂う空気を読んでいるという性質を意味する。つまり自分が何をしたいか、自分はどうすべきかを自分の純粋な心に問うことよりもむしろ、他人や人間社会の空気に従って自らの行動を決定するということだ。常に他人を気にし、人間たちの生み出す空気を気にしてばかりいて、彼らの思い通り、望み通りに動かなければならないと思い込まされている「協調性のある人生」に、果たして幸福なんて訪れるのだろうか。自分が本来やりたいと心から願うことを横に置いといて、純粋な自らの心の声を聞こえないように耳を塞いで、その代わりに他人の望みばかり実現させようとして、その結果として他人や人間社会から好かれて、協調性のある人間として賞賛されてそれで本当に心は満たされるのだろか。

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協調性があるから他人や社会から好かれているという状況は、断言すれば決して「愛されている」わけではない。愛とは見返りを求めずにただ与え続けられる心の状態を指す。協調性がある人を好くということは、いつでも都合のいいときに助けてくれたり協力してくれたり便利に稼働してくれるからこそ好いているのであって、とても便利な見返りを期待できるから好意を注ぐのであって、無条件で、本来の意味で、何もなして愛されているわけでは決してない。協調性のある人は人間としてふさわしい、賞賛されるべき好かれるべき人材だとおだてられることによって、都合よく人間集団に利用されているだけであって、本来の意味での愛を享受しているわけでは全くない。

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その証拠にあなたが突如協調性のある人間から協調性のない人間に変わってしまったら、今まで好きだと言ってくれた人間社会の誰もがあなたを好きではなくなるだろう。無意味な協調性のない人間として、役立たずとして冷たく処理されるだけだろう。それはあなたが協調性のある便利な部品だから好かれていただけのことであって、本来の意味の愛からは程遠いものだったのだ。

 

・協調性のある人の相対的幸福と迷妄、協調性のない人の絶対的幸福と孤独

協調性のある人間の価値というものは、このように他人の目や他人の生み出す空気に依存していた分、他人や社会の気持ちによって揺れ動く不安定なものであり、絶対的な幸福や絶対的な自らの価値を確立するためには極めて不向きである。

逆に協調性のない人間の場合は、他人のことや世の中のことなどふり向きもせず、人間として欠落しているとか出来損ないだとか悪口を言われるがそんなことも気にせず、自分の心から訪れる澄んだ声や純粋な直感を頼りとして生きているので、自らの価値や幸福を他人に左右されることがない。

つまり協調性のある人間の幸福や価値は常に揺らぎやすく、不安定で、脆く、結局は他人に依存しなければ見つけられない欠落した相対的幸福や相対的価値しか持つことができずに、最終的には永遠に揺らぎのない絶対的な幸福や価値を見出すことができないままで魂は迷妄に陥り、欠乏感や不幸な感覚から抜け出せないまま一生を終えるだろう。それに対して協調性のない人は自らを頼りとし、自らの根源から訪れる心の声のみを信仰して生きているので、移り変わりやすく損得勘定ばかり考える他人の思いというものに魂を支配されることがなく、心安からに自らの魂に課せられた使命を孤独に遂行し、絶対的な幸福と絶対的な価値を胸の中に確立させることが可能となるだろう。

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誰もがこの世にひとりで生まれ、最後にはひとりでこの世を去っていく。人生とは自分自身に課せられた秘密や問題をひとつひとつ丁寧に解いていく時間であり、その秘密や問題は人によってそれぞれに全く異なる。他人との関わりの中でそれを解決する場合はあっても、魂の秘密や問題は結局は自分だけに課せられた自分だけの使命なので、他人と協力することなどはできず徹底的な孤独の中で答えを見出す歩みとなる。

 

・真剣に生き抜く者は必ず「協調性のない人」になり、「協調性のある人」は単なる怠け者に過ぎない

協調性のない人々は人間社会の中で、人間として欠落しているとか出来損ないだとか悪口を言われるが、それは当然のことである。なぜなら彼らは人間社会にとって、都合のいい人間ではないからだ。都合がよければ好かれるし、都合が悪ければ嫌われる、人間社会とは誠に単純明快でありわかりやすいが、その「好き」にも「嫌い」にも何の価値もありはせぬ。都合がよく便利なら「好き」だと賞賛し、都合が悪く従順でないなら「嫌い」だと突き放す、そんな愚かな人間の裁きに果たして何の意味があるのだろうか。

人間社会の中で嫌われるのが怖いから協調性のある人を演じ、他人や空気に怯えながら生きている人もこの世にはたくさんいることだろう。しかし人生というものをしっかりと見定め、自らの魂の使命というものを見出すならば、決して他人ばかり気にする「協調性のある人」でなんていられないだろう。本当に真剣に、必死に自分と向き合い生き抜いている人は絶対的に「協調性のない人間」にならざるを得ない。それは自分の幸福と価値を他人に依存させる愚かさを知っているからだ。どんなに嫌われても、悪口を言われても、孤独でも、自らの人生と真剣に向き合う限り「協調性のない人」になることを選ぶだろう。そしてただただ他人から好かれたい、嫌われたくない、安定した生活を送りたいからと言って「協調性のある人」となる人々は優れた人格などではなく、単なる愚かな怠け者だということを彼らは見抜いている。

 

 

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